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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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病、膏肓に入る

 紀元前581年


 春、晋の景公けいこうが大夫・糴茷てきはいを楚に送った。前年、楚の大宰・子商ししょうが晋を訪問したことへの答礼である。


 楚との関係を融和を見せる晋であるが、一方では衛に命じ、衛の定公ていこうの弟・子叔黒背が鄭を攻め込んだ。


 晋の怒りが未だ解けない状況に業を煮やした鄭の公子・はん子如しじょ)が公孫申こうそんしんの謀に同意した。


 三月、公子・班が公子・じゅ(鄭の襄公じょうこうの子。成公せいこうの庶兄)を国君に立てた。


 これに反感を抱いた子罕しかん(公子・)、子駟しし(公子・)は新君・繻を殺し、髠頑(または「髠原」「惲」。成公の太子)を立てた。公子・班は許に奔った。


 晋の欒書らんしょはこの状況に対し、


「鄭が新たに国君を立てた。我々が捕えた者(鄭の成公)は普通の人に過ぎないことになる。鄭を討伐してその君を還し、講和するべきである」


 彼はそう主張し、鄭への出兵を求めたがこの頃、景公が病に倒れた。そのため宮中には反対意見が出たが、欒書は強行した。


 五月、晋が太子・州蒲(または「州満」「寿曼」)を国君に立て、魯の成公せいこう、斉の霊公れいこう、宋の共公きょうこう、衛の定公・、曹の宣公せんこうを集めて鄭に侵攻した。即位した州蒲は晋の厲公れいこうという。


 鄭は晋の侵攻を招いているものの、これは彼らにとっても良き機会であった。


 子罕は襄鐘(襄公廟の鐘)を晋に送って講和を求めた。


 欒書としては講和する気はあったため同意、鄭の子然しぜん(穆公の子)が脩沢(鄭地)で晋と盟を結び、子駟が人質として晋に送らた。


 その結果、成公が鄭に帰国することになった。
















 病に倒れた景公が夢で大厲(悪鬼。趙氏の先祖)を見た。その髪は乱れ、地につくほどに長い。大厲は胸を叩いて跳びはねながら


「汝は我の子孫を殺した。不義である。故に我は帝(天帝)に報復の許しを得たぞ」


 と言うと、宮殿の大門と寝門を破壊して侵入してきた。景公は恐れて内室(寝室の奥の部屋)に逃げたが、戸が壊された。


 驚きながら飛び起き、これが夢であったことを理解した景公は目が覚めてから桑田の巫を呼んだ。


 巫は景公が見た夢と同じの内容を語る。景公が夢の意味を問うと、巫は答えた。


「主公は新麦を食べることができないでしょう」


 


 景公の病が重くなったため、秦から医者を招くことにした。秦の桓公かんこうは医・緩(緩は医者の名)を送った。晋と秦は仲が悪いわりには、こういうところがあるのが、不思議である。


 医者が到着する前に景公は夢で二人の豎子(童子)を見た。病の化身である。一人が


「彼は良医だ。僕たちを傷つけるだろう。どこに逃げようか?」


 と言うと、もう一人はこう言った。


「僕らは肓の上、膏の下にいるんだ。彼にもどうすることはできないだろうよ」


 やがて緩が到着し、景公を診て言った。


「病を治すことはできません。既に肓の上、膏の下に居り、鍼灸も薬も使えませぬ」


 景公は


「良医である」


 と称え、厚くもてなして帰らせた。


 この故事から「病、膏肓に入る」という成語ができた。


 膏は古代の医学で心臓の下に位置するといわれた脂肪、肓は心臓と隔膜の間のことで、病が深く侵入し、既に手がつけられない状態を表す。


 六月、景公は新麦を食べたいと思い、甸人(食物を管理する官)に新麦を献上させた。饋人(諸侯の飲食を管理する官)が早速調理し始めた。


「ふむ、新麦が食えそうだ」


 景公は桑田の巫を招き、調理された新麦を見せると、


「新麦を食べることができない」


 という予言がはずれたことを謗って処刑した。


 しかし、景公が新麦を食べようとした時、突然腹が張り出したため、景公は慌てて厠に入ったが、足を踏み外し、下に落ちて死んでしまった。


 結局、新麦は一口も食べていないことになる。


 この日の朝、小臣(宦官)が景公を背負って天に登る夢を見た。


 正午、小官が景公を背負って厠から出てきたため、小官も殺されて殉葬された。当時の価値観ではついていけないところの一つである。












 鄭の成公が不在中に国君を立てた者を処刑した。叔申と叔禽(叔申の弟)が処刑された。彼がこのときに実行したのは、景公がなくなったため、鄭にちょっかいをかけないだろうという思惑故である。


 七月、魯の成公が晋に行った。晋は魯が楚と通じていると疑っていた。


 この時、晋が楚に派遣した糴茷がまだ帰国していなかったため、楚の状況が把握できていなかった。そこで晋は疑いのある成公の帰国を許可せず、景公の葬儀に参加させた。


 冬、景公が埋蔵されたのだが、成公以外の諸侯が参加していなかったため、魯はこのことを屈辱とし、魯の史書である『春秋』は魯成公が葬送したことを書いていない。屈辱として隠した(「諱」といいます)ためである(『春秋左氏伝』には記述がある)。



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