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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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鍾儀

 七月、斉の頃公けいこうが死に、子のかんが立った。これを斉の霊公れいこうという。


「主公がお亡くなりになられたか……」


 晏弱あんじゃくは頃公の死を嘆いた。


(愚かなことで戦を起こした責任はあるものの、その後の政を疎かにしなかった。斉は良君を失ってしまった)


 その後を継いだ霊公は活発な人物と聞いている。


(活発であるということは人としての明るさがあるとも言える。されど、晋との関係などを考慮するだけの考えを持てるかが、この先大事であり、重要だ)


 斉は難しい立場であることが、どれほどの者が理解できているか。それ次第で斉の運命は大きく変わることになる。


(願わくは斉によりよき未来があらんことを……)


 晏弱は願った。










 

 秋、鄭の成公せいこうが晋に朝見した。


 晋の景公けいこうは鄭が楚と通じたことを怒り、


「鄭は秘かに楚と和平している」


 と宣言して、成公を銅鞮(晋侯の別宮)に捕えた。


「鄭を攻めよ」


 景公はそう命じ、晋の欒書らんしょが鄭を攻めた。


 鄭は講和を求めて伯蠲はくけんを派遣したが、浅ましい部分があったとはいえ、晋は伯蠲を殺してしまった。


「晋が伯蠲を殺してしまうとは」


 本来、戦時中とはいえ、使者の往来は認めるべきであり、殺してしまうべきではない。だが、晋側の怒りはそれだけ激しかった。


「楚に救援を求めねばならない」


 鄭は楚に救援を求めた。


 楚の子重はこの救援に答えて、鄭を救うために陳を攻撃した。流石に晋とぶつかり合う自信は無いためである。


 因みに陳は楚に服従していたが、いつの間にか晋と手を結んでいたようである。


 鄭への侵攻により、晋楚間で緊張状態が生まれた中、ある時、景公が軍府(軍用倉庫)を視察し、鍾儀しょうぎを見つけた。


 景公は彼がこのようなところにいることを知らず、また誰なのかも知らなった。


「南冠(楚の冠)を被って繋がれている者は誰だ?」


 と問うと、有司(官員)が


「鄭が献上した楚囚でございます」


 と答えた。


 景公は鍾儀の縄を解かせ、招いて慰問した。鍾儀は再拝稽首する。


 景公が鍾儀の族人(家族・家系)について尋ねると、鍾儀は


「泠人(伶人。楽官)でございます」


 と答えた。


 ほう、と思った景公が聞いた。


「楽奏ができるか?」


 鍾儀が答えた。


「先人の職官でございますので、それを棄てることはございません」


 できるということである。


 そこで景公が琴を与えると、鍾儀は南音(楚の音楽)を奏でた。


 景公がそれを聞いてしばらくしてから問うた。


「汝の君王はどうであろうか?」


 鍾儀が答えた。


「それは小人が知る事ではございません」


 それでも景公が頑なに質問したため、鍾儀はこう答えた。


「国君が太子だった頃、師と保(どちらも教育官)が太子を奉じておりました。太子は、朝は嬰斉えいせい(令尹・子重しちょう)に、夕はそく(司馬・子反しはん)に教えを請うておりました。その他の事は知りません」


 景公がこれを士燮ししょうに話すと、こう答えた。


「楚囚は君子です。先に先人の職を語ったのは、本に背かない(根本を忘れない)たま、土風(故郷の音楽)を奏でたのは、旧を忘れないためです。楚君が太子だった頃を称賛したのは、私心がないためです。楚君(楚の共王きょうおう)は太子の頃から聡明だったため、成るべくして国君になったと語ったのです。既に即位された君王に対し、取り繕って阿諛しようという心がないことを表しております。二卿の名を述べたのは、主君を尊とぶが故です。本来、国君の前では、臣下は官名や字ではなく名を直接呼ぶことが礼とされております。そのため主君への敬意を表しています。本に背かないのは仁、旧を忘れないのは信、私心がないのは忠、国君を尊ぶのは敏(聡明)。仁によって事を受け継ぎ、信によって事を守り、忠によって事を成し、敏によって事を行えば、大事でも必ず完遂できるもの、主公は彼を帰らせて、晋楚の和平を実現させるべきです」


 景公はこれに従い、鍾儀に厚い礼を加え、和平のために帰国させた。


 一方、楚の子重は陳から莒に兵を進め、渠丘を包囲した。渠丘は城が破損していたため、民衆が離散して莒城に奔っていった。


 そのまま楚軍が渠丘に入ったが、莒に向かう途中で莒人が楚の公子・へいを捕えた。楚軍は、


「殺さなければ、奪った捕虜を返す」


 と伝えたが、莒は公子・平を殺してしまった。


 楚軍は莒城を包囲しました。数日で莒城も破損していたため、楚軍の攻撃によって壊滅した。


 楚は兵を進めて鄆城にも入った。


 全て莒に備えがなかったために招いた敗北である。


 但し、この後も莒は存続しているため、楚は莒を併吞せず、盟を結んで帰ったようだ。楚がこのようにしている中、晋は動けなかった。


 諸侯が晋から離れ始めていたため、晋が秦と白狄の進攻を招いてしまい。これの対応に追われていたのである。


 鄭の成公せいこうが晋に捕えられてから、国内で公孫申こうそんしんがとんでもないことを言った。


「軍を出して許を包囲し、仮の国君を立て、晋に使者を送らないようにすれば、晋は主君を返すはずでしょう」


 奇策である。されどあまりにも危険が伴うため、誰も同意しなかった。


 されど鄭は成公の釈放を急いでいない姿を見せるため、兵を出して許を包囲した。


 十二月、楚の共王が公子・しん子商ししょう)を晋に送った。鍾儀の返還に対する答礼である。楚は晋に関係を修復し、和を結ぶことを求めた。



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