渠丘公
七月、周の簡王が卿士・召伯(桓公)を魯に送って命を下した。魯の成公の諸侯としての地位が正式に認められたことになる。
されど本年で成公の即位八年であるため、大分時間がかかってのことである。
晋の景公が巫臣を呉に派遣し、莒に道を借りた。
巫臣が渠丘公(莒は夷であるため諡号がなく、渠丘は地名である)と濠に立って言った。
「やけに城が破損しておりますな」
渠丘公が言った。
「私の国は辺境の夷の地にありますので、誰がこの地を望むでしょうかな?」
(甘い)
巫臣は言った。
「狡猾な者は領土を開き、社稷の利益にすることを考えるもの。どの国にもそういう者はいます。だからこそ大国がますます成長するのです。小国はそれを考えて備えをすることもあれば、そのままにして備えないこともございます。そして、前者は存続し、後者は滅びることになるのです。勇夫でも門を閉じて家を守るもの。国ならなおさらではございませんか?」
渠丘公は頷くものの、その言葉はどこまで届いたかわからない。
莒は翌年、楚の攻撃を受けることになる。
一方、景公は士燮を魯に聘問させていた。前年、呉に帰順した郯に対する討伐の協力を求めるためである。
成公は士燮に賄賂を贈って出兵を遅らせるように請うた。晋に振り回されるのが嫌なのである。成公自身が晋にあまり良い感情を抱いてないということもある。
しかしながら士燮は賄賂をもらうような人物ではない。断ってこう言った。
「君命は一つしかなく、出兵するかしないかしかないのです。信を失っってしまえば、存続できないのです。礼は財貨を加えず(賄賂を使わず)、事は両立しないもの。貴君が諸侯の遅れをとられるのであれば、、我が君が貴君につかえることはございません。私は服命してこれを報告するだけです」
つまり、晋としては貴方方との関係をいつ切っても良く。貴方方はそれで宜しいかという脅しがここにはある。
これを聞いた季孫行父は恐れて叔孫僑如を派遣することにした。彼としては晋との関係を悪くさせるわけにはいかないのだ。
「おのれ、また私が行くのか」
苛々しながら叔孫僑如は晋の士燮および斉、邾と合流して郯を攻撃した。
衛が魯から宋に嫁ぐことになった伯姫のために媵(新婦に従って共に嫁ぐ女性。子供が新婦にできなかった時の保険時な人物)を送った。衛と魯は同姓であり、同姓諸侯の結婚で媵を送るのは礼とされている。
紀元前582年
昨年、晋が魯に汶陽の田を斉に譲るよう要求したため、諸侯が晋に不信感を抱くようになっていた。晋は諸侯の離反を恐れて会を開いた。
晋の景公、魯の成公、斉の頃公、宋の共公、衛の定公、鄭の成公、曹の宣公、莒君、杞の桓公が蒲(衛地)で盟を結び、二年前の馬陵の盟が確認した。
魯の季孫行父が晋の士燮に言った。
「晋は既に徳が弱くなったのにも関わらず、盟を求めてどうなさるおつもりでしょうか」
これは晋が魯に領土割譲を要求したことを指している。
士燮は答えた。
「勤勉によって諸侯を按撫し、寬厚によって諸侯を遇し、堅強によって諸侯を御し、明神(神を明らかにすること。盟約を結ぶこと)によって諸侯に結束を促し、服す者を懐柔し、二心を抱く者を討つ。これが次善の徳というもの。最良の徳を失ったがために、改めて盟を結ぶのです」
晋が弱くなりつつあるのは、事実である。だからこそやるのである。
それを聞きながら季孫行父は内心では、
(だが、この会盟に呉が来なかった時点でやはり晋は……)
そうこの会盟で晋は初めて呉を招いていたが、呉は参加しなかったのである。晋は盟を確認するとしたにも関わらず、この状況である。
(楚に行く国も出てくるかもしれないな)
季孫行父はそう考えた。
その後、鄭に楚から巨額の賄賂を贈られてきた。
鄭の成公は秘かに楚の公子・成と鄧(恐らく楚地。故鄧国)で会見を行い、楚と結んだ。鄭は晋の行いに反感があったのである。
夏、魯の季孫行父が宋に入って嫁いだばかりの伯姫(共姫)を慰労した。
季孫行父が帰国すると、成公は宴を開いて『韓奕(詩経・大雅)』の第五章を賦した。
蹶父が娘・韓姞のために夫になる者を探し、外に嫁いだ韓姞は幸せに暮らすという内容である。
すると魯の穆姜(伯姫の母。宣公夫人)が東房から路寝(宴を行う部屋)に姿を見せ、季孫行父を再拝して言った。
「大夫(季孫行父)は勤勉であり、先君(宣公)を忘れることなく、恩恵は嗣君(成公)と未亡人(穆姜)にも及んでおります。これは先君が望んでいたことでございます。大夫の重勤を拝させていただきます」
穆姜は宣公を想って『緑衣(詩経・邶風)』の末句「私は故人を想わん。故人は私の心を奪い去った」を賦し、東房に戻った。
季孫行父はこの時、慎みながら聞いていたが、後にこの穆姜に振り回されることになる。




