趙荘姫
紀元前583年
春、晋の景公が韓穿を魯に派遣した。汶陽の田(地)の斉への返還について話し合うためである。
季孫行父が宴を設けて私人の立場で言った。
「大国の行為に義があるため、盟主になることができ、諸侯はその徳を慕い、討伐を恐れ、二心を抱かなくなると私は聞いています。汶陽の田は元々我が国に属していたので、貴国は斉に対して軍を用いて下さり、我が国に返還させたはずです。しかしながら此度、命を変えて『斉に返還せよ』と要求されました。信によって義が行われ、義によって命が完成されることを、小国は望んでいるのです。信を知ることができなければ、義を建てることもできず、四方の諸侯が離散してしまうでしょうことでしょう」
元々、自分たちの土地であったにも関わらず、それを他国と渡せというのは、明らかに道理に合わない。
「『詩(衛風・氓)』に『女は心変りせずも、男の行いは前後が異なっている。男には準則がなく、二心三心を抱く』とあります。貴国は七年の間に与えたり奪ったりしておりますが、これよりもひどい心変りがあるでしょうか。士でも二心や三心を抱けば、妃耦(妻)を失うものです。霸者ならなおさらです。霸者は徳を用いるべきなのに、前後の行動が一致しないようでは、長く諸侯の支持を得ることはできないではありませんか。『詩(大雅・板)』に『君王が遠謀をもたないのであれば、私は大諫に尽力するだろう』行父(私)は晋が遠謀を持たず、諸侯を失うことを恐れるため、こうして個人的に進言させていただきます」
こうして、季孫行父は大いに諌めたのだが、結局、汶陽の田は斉に譲ることになったようである。これは裏取引があったようにも思えるが、真実は闇に中である。
二年前、楚軍が中原(繞角)から兵を退いてから、晋は沈を攻撃して沈子・揖初を捕え、この年、晋の欒書は蔡へ侵攻、楚を攻撃して大夫・申驪を捕えるなど大いに活躍した。
また、鄭の成公は晋軍に合流しようとして許を通った時、許に備えがないと知り、東門を攻めて多くの戦功を立てた。騙し討ちに近い行為である。
三年前、趙嬰斉が亡命に追いこまれたという事件があった。それを主導したのは、趙同と趙括である。
晋の趙荘姫は、その件を恨み、景公に讒言した。
「原(趙同)と屏(趙括)が乱を企んでいます。欒氏と郤氏が証明できましょう」
景公が欒氏当主・欒書と郤氏当主・郤錡を招き、趙氏らの謀反について聞いた。すると、二人は謀反の気配有りと言った。
欒書はかつての邲の戦いでの敗戦の責任は彼らにあると思っていたことや、郤錡は自分の祖父や父が趙盾に振り回されていることを知っていたため、その憂さ晴らしという理由があった。
景公としては、彼らがそう言ってくれたことにほっとした。景公としては趙氏討伐は決定事項に近かった。彼からしても趙一門の横暴は気に入らなかったのである。
六月、景公は趙同と趙括を討ち、族滅に追い込んだ。趙括は趙氏宗族の主であるため、この事件で趙氏が滅ぼされたことになる。
そして、景公は趙氏の田(土地)を没収し、祁奚(祁大夫)に与えることにした。
それに待ったを掛けたものがいた。韓厥である。彼は若い頃、趙盾に用いられたことで恩義を受けていたのである。
韓厥が景公に進言した。
「成季(趙衰)の勳と宣孟(趙盾)の忠がありながら、後継者がいないようでは、善事を行う者が危惧するようになりましょう。三代(夏・商・周)の賢王と言われる方々は皆、数百年にわたって天の禄を受け継いできました。されど僻王(邪悪な王)が一人もいなかったわけではございません。前哲(先王の賢明)によって亡国を免れてきたのです。『周書(尚書・康誥)』にはこうあります『身寄りのない者を虐げてはならない』これが徳を明らかにするというものです」
景公は趙氏の復活を決意し、趙武を趙氏の後継者に立てて田地や家財を返した。
恩に報いた韓厥の見事が目立っているが、それ以上に見事なのは、祁奚であろう。彼は本来渡されようとした土地を受け取れなかったことに何ら不平不満を述べず、恨んだ様子もない。この人の見事さに晋は度々恩恵を受けることになることになる。
(良かった)
韓厥は安堵した。趙盾の恩義をやっと返すことができたという思いがあったからだ。
彼は趙荘姫の元に出向いた。趙武が趙氏の当主になることが決まったことを報告するためである。しかしながら内心、複雑ではあった。
趙氏が後一歩で族滅するまで、追い込んだのは彼女である。また、彼女は不義も行っている。
(なんということかと嘆いたものだったが……)
「奥方様、若様が当主に任命されました」
「そう、主公はお許しになったのですね。良かったわ」
趙荘姫は微笑みながらそういった。その顔は子を想う母の顔であった。
「息子のことお頼みします」
「はっ身命に変えてもお守りします」
彼の言葉に趙荘姫は微笑み、頭の簪を抜いた。
「夫の死はどう聞いていますか?」
「病死と伺っておりますが……」
「それでもあまりにも急な死でした。そうは思いませんでしたか?」
「それは……」
確かに死ぬ様子などは特に見られなかった。
「私はあの人が死んで直ぐにあの者らを疑いました」
先程まで穏やかだった趙荘姫の目は怒りに満ち始める。
「奥方様……」
「何の証拠もありません。ただ、それでも私は……」
彼女は手にある簪をじっと見つめる。
「あの男に抱かれ、あの者らを国から排除したのです」
趙荘姫は簪を強く握る。
「ですが、そのための手段とはいえ、別の男に抱かれるなど不義とも言うべき行為、その罪は死を持って償われなければなりません」
彼女は簪を自らの首に刺した。
「奥方様ぁ」
韓厥は慌てて駆け寄るが、彼女の首から夥しい血の量が流れていき、そのまま彼女は息を引き取った。
「奥方様……若様は父の顔も知らずにいるのですぞ。母の顔も知らずとはなんと残酷なことではございませんか……」
彼は嘆き、そして彼は趙武を生涯守り続けると誓った。




