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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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きりきり舞い

 秋、楚の子重しじゅうが鄭を攻撃し、氾に駐軍した。


 晋の景公けいこう、魯の成公せいこう、斉の頃公けいこう、宋の共公きょうこう、衛の定公ていこう、曹の宣公せんこうと莒君、邾君、杞の桓公かんこうが鄭救援のために兵を出した。


 鄭の共仲きょうちゅう侯羽こううの二人が軍を率いて、楚軍と対峙し、楚を破り、鄖公・鍾儀しょうぎを捕えて晋に献上した。


 八月、諸侯が馬陵で盟を結んだ。莒が晋に服したことと、蟲牢の盟約(二年前)を再確認することが新たに盟を結んだ理由である。


 晋は楚の捕虜・鍾儀を連れて還り、軍府(軍用倉庫)に監禁した。


 楚が宋を包囲して帰服させた戦いで(紀元前594年)、凱旋した楚の子重が申邑と呂邑を賞田(賞地)として求めたということがあった。


 楚の荘王そうおうは同意したが、これに巫臣が反対した。


「いけません。申と呂が公の邑であるために兵賦(兵役と軍用物資)を得て北方を防ぐことができるのです。もし二邑を賞田にしてしまえば、北方の守りがなくなり晋・鄭が漢水に至ることになりましょう」


 荘王が巫臣の諫言に賛成したため、子重は巫臣を怨むようになった。


 かつて子反しはんが陳から得た美女・夏姫かきを娶ろうとしましたが、これに反対した巫臣が夏姫を娶って出奔したため、子反も巫臣を怨んでいた。


 二人は仲が良くはないが、巫臣を恨んでいることについては共通していた。


 そのため、楚の共王きょうおうが即位すると、子重と子反は巫臣の一族にあたる子閻しあん子蕩しとうと清尹(官名)・弗忌ふきを殺した。


 更に夏姫を娶ってから戦死した襄老じょうろうの子・黒要こくようも殺された。黒要に関しては自業自得に近いが、他の者たちはとんだとばっちりである。


 子重は子閻の家財を奪い、沈尹(沈県の尹)と王子・)に子蕩の家財を分けさせ、子反は黒要と弗忌の家財を奪った。


 彼らは復讐を謳っている割には、自分の私利私欲を満たす行為を行っている。巫臣に罪があることは事実だが、許されることではない。


「ここまでやるか……」


 巫臣は一族を殺されたことを知り、手を震わせる。


「貴方様……」


 その様子を夏姫は心配そうに見守る。彼女は巫臣と共に晋に来てから、幸せを謳歌していた。


「心配することはない。大丈夫だ」


(自分にも責任はある。だが、この非道は許さん)


 巫臣は晋から子重と子反に書を送った。


「汝等は姦悪貪婪によって主君に仕え、多くの不辜なる者を殺した。私は必ずや汝等を奔命によって疲労させ、死に至らしめよう」


 二人はこの書簡が来ても、無視した。相手は晋にいるのである。どうやってそのようなことができるのかとタカをくくっていたのである。


 だが、彼らは巫臣という男を舐めていたと言えよう。


「主公にお願いがございます。私を呉に派遣し、正式な国交を結んでまいりたいのです」


 巫臣は使者として呉に行くことを望むと晋の景公は同意した。


「良くぞ参られた」


 巫臣が呉に来ると呉の寿夢じゅぼうは彼の訪問を喜び、晋との国交が正式に開かれた。


 ここで正式に開かれたと書いたが、一回行って、はい国交結びましょうとはならないことをここに明記しておく。何度も巫臣が呉と交流してここまで来れたのである。


「きっと来られると思っておりましたぞ」


 にこにこした表情を浮かべながら彼は話す。


「それで、楚の誰と戦をして勝てばよろしいので?」


(こやつもやはり乱世に生きるものか……)


 ふと、そのようなことを考えながら巫臣は言った。


「まだまだ、甘いですな。楚とまともに戦ができるかとお思いか。あなた様に晋が望むことは精々楚の気を引いてもらうことです」


「わかっております。それで我が国にタダ同然で働けと申されるわけではございますまい」


「もちろんだとも」


 巫臣は三十乗の兵車を率いて呉に入り、十五乗を呉に残した。また、射手や御者を呉に送って兵車による戦い方を呉人に教え、楚と対抗できるようにした。


「他にわからぬことや、諸国との外交はこの者にお任せすればよろしいかと」


 また、巫臣の子・屈狐庸くつこよう(巫臣は屈氏)を呉に留め、行人(外交官)にさせたのである。


(これを気前が良いと取るか、監視役と取るか……)


 寿夢は顎を撫でながら思う。諸国が優秀な人材を広く求めている時代の中で、優秀な人材を他国に渡すなど普通はないことである。


(裏を返せば、それだけ呉という国に価値を見出しているということだ)


「期待に添えるよう。奮闘いたしましょう」


 寿夢は狐庸を礼を持って歓迎した。


 晋と結び、晋からの兵などを得て、力をつけた呉は楚と戦闘を開始した。先ずは巣や徐に仕掛けた。


 楚の子重はこの呉の進攻を防ぐために奔走することになる。これが巫臣の一手だとも知らずに……


 この年、馬陵の会が開かれると、呉は州来(国名)に攻め込んだ。


 子重が慌てて鄭から救援に向かう。このように子重と子反は呉軍を防ぐために一年で七回奔走したと言われている。だが、呉は攻めては退き、攻めては退くということを繰り返したため、楚は呉の動きを捕らえることができない。


 正にきりきり舞いにされ、彼らは疲労していく。


 その間に、楚に属す小国は次々に呉に占領されていく。呉はこの後ますます強大化し、中原諸国との往来が頻繁になるほどまでに成長したのである。




 





 この頃、晋に逃げてきた者がいる。その男の名は孫林父そんりんぽである。あの孫良夫そんりょうふの息子である。


 彼が逃げてきた理由は衛の定公に嫌われていたからである。しかしながら孫林父は身一つで来たわけではない。なんと自分の領土である戚邑(孫氏の食邑)を挙げて帰順したのである。


 定公は晋に来てこれに抗議、晋は戚邑を衛に返還した。だが、衛公室と孫氏の対立は長く続くことになる。



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