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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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晋の遷都

 紀元前585年


 鄭の悼公とうこう)が晋に行き、講和の成立を謝した。


 子游しゆう(公子・えん)が相(儀礼を補佐する役)となり、東楹(堂上の東の大柱のこと。古代の堂には東西に大柱があった。その間を中堂という)の東で晋の景公(けいこう)に玉を渡した。


 この時、主人と賓客の地位が対等である際、双方とも両楹の間に立つということが礼であったが、主人の地位が賓客よりも上なら、賓客は東楹の東(中堂の外)に立ち、主人は東楹の西(中堂の中)に立つことになっていた。


 景公と悼公ではどちらも一国の主であるため、形式的とはいえ、対等な立場にいる。しかし悼公は敢えてへりくだった。


 これを見て、晋の士渥濁しあくだくが言った。


「鄭君はもうすぐ死ぬだろう。自分で自分を棄てた(自らへりくだるのは、自分に対する尊厳を棄てたことになる)。また、その視線は動きが早く、安定していない。長くはないはずだ」


  彼の言うとおり、この年に悼公は死に、弟の鄭の成公せいこうが継ぐことになる。


 二月、季孫行父きそんこうほが鞌の功績によって武宮を建てた。


 本来、鞌の戦いは晋の指示に従って国難を除いた戦いであったため、季孫行父が自分の功績として武宮を建てたのは非礼であると非難された。


 だが、そんな非難に負けないだけの権威を季孫行父は握り始めていたということでもある。













 三月、晋の伯宗はくそう夏陽説かようえつ、衛の孫良夫そんりょうふ甯相ねいしょうおよび鄭人が伊雒の戎、陸渾の戎、蛮氏(戎蛮)を率いて宋を攻撃した。


 前年の諸侯の会盟を相談した時、宋が参加を拒否したためである。


 連合軍は鍼(衛の邑。衛都・帝丘の近く)に駐軍した


 衛は孫良夫等が主力を率いていたため、首都・帝丘の守りが薄くなっていた。


 そこで夏陽説がとんでもないことを考えた。衛を急襲しようと考えたのである。そして、彼はこう言った。


「たとえ進攻できなくとも、多くの捕虜を捕えて還ることはできましょう。罪を問われたとしても、処刑されることはないのではありませんか?」


 しかし伯宗が反対して言った。


「それはいけない。衛は晋を信じているために、軍を郊外に置いて備えをしていないのだ。もしも急襲などすれば、その信を棄てることになる。多くの捕虜を得たとしても、晋に対する信を失えば、諸侯の支持を得ることができなくなるではないか」


 その後、連合軍は宋を侵して兵を還した。


 晋が衛を通って帰還すると、衛は陴(城壁)に兵を登らせて警戒させた。


「警戒する必要がございますか?」


 甯相が孫良夫に問いかけると彼は言った。


「晋の傲慢さに備えをするのだからこれでも緩いくらいであるよ」


 彼は晋という国を信用してはいなかった。まあ、彼は基本的に人を信じない人である。













 晋は都・絳からの遷都を考えていた。


 諸大夫が進言した。


「郇(解池の西北)か瑕氏(解池の南)の地にするべきです。これらの地は肥沃で塩池(解池)にも近く、国に利があり、主公も楽しむことができましょう」


 当時、韓厥かんけつは新中軍の将であり、僕大夫(宮中の事務を管轄する官)を兼任していた。


 この日、景公が群臣に揖礼して宮内に帰ると、韓厥が後に従った。


 景公が寝庭(正寝外の庭)に立って韓厥に


「諸大夫の意見はどうだった?」


 と聞いた。これに韓厥が答える。


「いけません。郇と瑕氏は土が薄く水が浅いため、汚れた物が溜まりやすくなっております。汚れた物が溜まりやすければ民が愁(憂鬱)になり、民が愁になれば病弱になり、風湿等の病が蔓延することになります。新都には新田(地名)を選ぶべきです。新田は土が厚く水が深いため、疾病にかかりにくく、汾水と澮水が汚物を流してくれます。民は服従することに慣れており、新田への遷都は十世の利になりましょう。山・沢・林・塩は国の宝です。国が豊かなら民は驕慢放蕩になり、宝が近ければ民は利を争い、農業を棄てるようになります。その結果、公室が貧しくなるので、主君は楽しむことができません」


 諸大夫の意見は民目線で考えていないということである。


 景公は進言を喜び、彼の意見を採用した。


 四月、晋が新田に遷った。新田は絳と改名され、旧都・絳は故絳とよばれるようになった。


 遷都した晋は魯に宋への侵攻を命じた。


 秋、魯の仲孫蔑ちゅうそんべつ叔孫僑如しゅくそんきょうじょが晋の命に従って宋に侵攻した。


「何故、我らが晋のために宋を討たねばならぬのか」


 叔孫僑如が吐き捨てるように言う。この男は顔は良いが、その性格は横暴である。


「晋との盟故だ。我慢をしろ」


 仲孫蔑が言うが、彼の不満は止まらない。


「それに何故、行父が来ぬのだ。このような戦はあやつに任せれば良いではないか?」


 彼の言動に仲孫蔑はため息をつく。


(お前を警戒しているからだとわからぬのか。この男は)


 三桓同士で争う時ではないだろうにと彼は思いながらまた、ため息をついた。





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