荀首
晋が捕虜にした楚の公子・穀臣の釈放と、連尹・襄老の死体を楚に返すことで、邲の役で楚に捕えられた知罃の返還の交渉を晋、楚の両国間で行われていた。
この時、知罃の父・荀首は中軍の佐として大きな発言力を持っていたこともあり、楚は知罃の返還に同意した。
「やれやれ、息子がやっと戻ってくるか」
荀首は首に手を当てて、右に左に首を揺らす。
「良かったですな」
士燮がそう言うと彼は手を振って、答える。
「いやいや、全く迷惑をかけましたので、お恥ずかしいかぎりですよ」
(相変わらず、この人は掴みどころの無い人だな)
士燮は彼のことを見ながら、そう思った。
楚の共王が知罃を送り出す時、
「汝は私を怨んでいるだろうか?」
と聞いた。共王はこのように問いかけるほどに楚は知罃のことを大事に扱っていたようである。
知罃が答えた。
「二国が交戦し、私は不才なために任務を全うすることができず、捕虜と相成りました。執事(共王の近臣)が私を釁鼓(祭祀の犠牲)に使わず、帰国させて殺戮を受けさせるのは(「晋国で罪に服させるのは」という意味である。自分には任務を全うできず捕虜になった罪がある)、貴君の恩恵でございます。私の不才が原因であるのに、誰を怨むことができるでしょうか」
共王が言った。
「それでは私を徳とするだろうか?」
自分の徳を認め、私にあなたは感謝するのだろうかということである。
知罃が答えた。
「二国はそれぞれの社稷を想い、民の安寧を願っているため、互いの怒りを抑えて許し合い、双方が捕虜を釈放して友好を成立させたのです。二国の友好は、私の力とは関係ないことでございます。私が敢えて誰かを徳とすることはございません」
真面目な人である。
共王が聞いた。
「汝は帰国した後、どのようにして私に報いるのだろうか?」
これはかつて、晋の文公が楚の成王との会話のような意味である。
知罃はここでも真面目に答えた。
「私は誰かを怨むことなく、貴君も徳を受けておりません(ここでは感謝の対象ではありませんということ)。怨も徳もないのに、何に報いるのでしょうか?」
共王は流石にむっと来たのか、こう言った。
「そうだとしても、汝がどのように不穀(国君の自称)に対するつもりか、話してみよ」
知罃が答えた。
「貴君の霊(守り)によって纍臣(捕虜になった臣)が晋に帰国し、我が君(晋の景公)に殺されたとすれば、私の死は不朽のものとなり、幸いなことです。貴君の恩恵によって私の罪が免じられ、貴君の外臣・首(知罃の父・荀首のこと、外国である晋の国君に仕えているため、共王にとっては外臣になる)に私の身があずけられた後、首が我が君に請願して宗廟で私を処刑したとしても、私の死は不朽のものとなりましょう」
つまり、捕虜になった罪を問われて晋君に殺されようとも、国君に殺されず、父に殺されたとしても、国で死ぬことができるのなら幸いなことという意味である。
「もし殺されることなく、宗職(嫡子の地位)を継いで政治に携わり、偏師(一部隊)を率いて封疆(国境)を守ることになれば、執事(楚共王の臣下)に遭遇したとしても避けることなく、命をかけて尽力して二心を持つことはございません。臣下の礼を尽くすことが貴君に対する報いでございます」
共王は感嘆した。
「晋とはまだ戦うべきではないな」
共王は礼を厚くして知罃を帰国させた。
帰国すると父である荀首が出迎えた。
「無事戻れて良かったな」
「ご心配おかけしました。如何なる処罰でもお受けいたします」
「それよりもだ」
(それよりも……)
息子としては少し、悲しい。
「楚君はどうだった。息子よ」
「お優しい方でした」
共王に対しての第一印象としては、そう感じた。
「先代と比べるとどうだ?」
「少々、劣ると思います」
正直に感想である。少なくとも楚の荘王にあった怖さが共王にはない。
「そうかそうか」
「されど、楚君は良君です。油断なりません」
真面目な表情で彼は言った。
「それがお前が楚で生活をしたことで得た感想か……」
「はい、父上は別のお考えがございますか?」
「いや、お前と同じ感想だよ」
荀首は手を振りながら、そう言いつつ。静かにつぶやく。
「でも、天下の覇権を取れるとは限らない」
知罃としてはどう答えるべきかわからない。
「息子や、お前はどうにも真面目過ぎるからな。もっと肩の力を抜いて、ゆっくり休め」
「わかりました」
彼は拝礼して、その場を離れた。
その後、知罃が捕虜として楚にいた時、鄭の賈人(商人)が褚(衣服を入れる大きな袋)に荀罃を入れて脱出させようとしたということがあった。しかし実行する前に楚が荀罃を釈放したため結局行われることはなかった。
後に賈人が晋に来ると、荀罃は賈人を厚くもてなした。
賈人は、
「私には功がありませんので、このような待遇を得るわけにはいきません。私のような小人が君子をだますようなことをしてはなりません」
と言って斉に去った。
汶陽の田(地)が魯に還されたが、棘の人々が服従しようとしなかったため、秋、魯の叔孫僑如が棘を包囲した。
一方、晋の郤克と衛の孫良夫が生き残った赤狄を滅ぼすため廧咎如(または「将咎如」「牆咎如」)を攻撃し、廧咎如は民心を失っていたため、壊滅した。
十一月、晋の景公が荀庚を魯に送って聘問し、過去の盟約を確認させたのだが、この時、衛の定公も孫良夫を魯に聘問させ、盟約を確認させようとしていた。
これに困った魯の成公が臧孫許に聞いた。
「中行伯は晋において三番目の地位にいるものの、孫子は衛において上卿である。どちらを先にするべきだろうか?」
中行伯は荀庚を指す。当時の晋は郤克が中軍の将、荀首が中軍の佐で、荀庚は上軍の将になっている。
臧孫許が答えた。
「次国の上卿は大国の中卿にあたり、中卿は下卿にあたり、下卿は上大夫にあたります。小国の上卿は大国の下卿にあたり、中卿は上大夫にあたり、下卿は下大夫にあたります。これが古の制度で決められた上下の関係でございます。衛は晋において次国ではなく、小国になります(衛の上卿・孫良夫と晋の下卿・荀庚は同格ということ)。両者は同格ではありますが、晋が盟主であります。晋を先にするべきです」
彼の言葉に従って、成公は先ず、荀庚と盟を結び、その後、孫良夫と盟を結んだ。




