楚の匱盟
晋軍が凱旋した。楚に対し、大敗した時とは打って変わって晋の人々は大いに彼らは称えた。
その時、軍の主将と言うべき、郤克は楚との戦いで参加していただけに誇らしかったことだろう。一方、士燮は最後に国に入った。
彼が戻ったことを知った父の士会が言った。
「私が汝の帰還を待ち望んでいないと思っていたのか。なぜ早く帰って来なかった」
すると士燮が答えた。
「軍は郤子の軍であり、郤子に功績があります。軍に功績がある時は、国人が喜んで迎え入れるものなので、私が先に国に入ってしまえば、必ずや注目を集めるでしょう。これでは私が郤子に代わって名誉を受けることになってしまいます。だから敢えて先に入らなかったのです」
士会は感嘆した。
「汝がこのように謙虚であるため、今後、我が家は禍から逃れられるとだろうと確信できた」
いつも厳しい父である士会は息子の成長を大いに喜んだ。
郤克が晋の景公に謁見した。景公が言った。
「子の力のおかげである」
郤克が答えた。
「主君の訓(教導)と二三子(諸将士)の力のおかげでございます。私だけの力ではございません」
士燮が謁見すると、景公は郤克と同じように慰労した。士燮が答えた。
「荀庚(荀林父の子。上軍の将。今回は出征していないが、士燮は上軍の佐であるため、荀庚の指示を受ける立場にいる)の命と、郤克(中軍の将なので全軍の元帥にあたる)の制のおかげでございます。私の力ではございません」
欒書(下軍の将)が謁見した時も、景公は同じように慰労した。欒書が言った。
「士燮の詔(指示)と、士が命に従ったおかげでございます。私の力ではございません」
かつてはあれほどいがみ合っていたが、この頃は比較的、仲が良い頃であった。
かつて魯の宣公が楚と友好を結ぼうとしたが、楚の荘王と宣公が相次いで死んだことで、中断してしまい、魯で成公が即位すると、魯は晋と盟を結び、晋と共に斉と戦った。
衛も楚を聘問せず、晋と盟を結んで斉と戦っている。
両国が楚から離れたことに危機感を覚えた楚の令尹・子重は諸侯を討つために兵を興すことにした。
子重が共王に進言した。
「主君はまだ幼弱であり(この時十二、三歳)、群臣も先大夫(歴代の大夫)に及ばないため、軍の数を多くしなければ勝つことは難しいでしょう。『詩(大雅・文王)』には『多数の士によって、文王は安寧を得ん』とあります。文王でも大軍を用いたのです。我々ならば当然ではないでしょうか?。また、先君の荘王は主君を我々に託してこう申されました『徳が遠方に及んでいないようなら、民を憐れんで恩恵を与え、善く民を用いるべきである』と」
子重の進言によって、楚は戸籍を調査し、納税の遅れを免除して、独りで生活している老齢者を援け、貧困を救済し、罪人を釈免した。
その上で全国の士卒を総動員をかけ、王卒(王の護衛)も出征させた。
共王自身は出征しないが、王卒が従軍したため王の車も参加することなる。彭名が王の戎車を御し、蔡の景公が車左に、許の霊公が車右になる。
二君はまだ成人前であるが、車左と車右は元服後でなければなれないため、強制して冠礼を行わせた。
子重は宰相としてはそこそこのものを持っているが、どうにも強引すぎる面がある。
冬、楚軍が衛を攻め、魯を侵し、蜀(魯地)に駐軍した。
魯の成公は臧孫許を送って楚と講和しようとしたが、臧孫許は、
「楚軍は本国を遠く離れて久しく、そのため自ら退却するでしょう。功もないのに名声だけ得るようなことは辞退致します」
自ら退く相手と講和してもその功績を自分のものとするつもりはないと言った彼だが、予想が外れて、楚軍は陽橋(魯地)に進軍した。
これは流石に失笑が漏れたが、楚との講和はしなければならない。
仲孫蔑が執斲(木工)・執鍼(縫女工)・織紝(織布工)各百人を楚に贈り、公衡(恐らく成公の弟?)を人質にして盟を請うた。
楚は講和に同意した。
十一月、楚の子重と成公が蜀で会見した。
楚の子重と成公、蔡の景公、許の霊公、秦の右大夫・説、宋の華元、陳の公孫寧、衛の孫良夫、鄭の公子・去疾、斉の大夫(卿ではないため、名が残されていない)および曹人、邾人、薛人、鄫人が蜀で盟を結んだ。
しかしながらこの盟は晋を恐れるが故に結んだ盟である。
晋を恐れながら秘かに楚と盟を結んだこの会は「匱盟(誠意がない盟)」とよばれた。
楚軍が宋に至った時、魯の人質・公衡が逃げ帰ってきた。
臧孫許が言った。
「公衡は数年の不安を我慢することもできず、国の大事を棄てた。このようなことでは、国はどうなるのだろう。彼は国を棄てたのだから、後の代の人が必ず禍を受けるはずだろう」
今回の楚の出征に対して、晋は対抗しなかった。楚が大軍を擁していたためである。または、諸国が楚と結んだ盟はほとんど意味が無いものと見抜いていたのかもしれない。




