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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第七章 大国と小国

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鞍の戦い

本日は外伝も投稿、

 晋、斉両軍は鞍(鞌。歴下)に陣を構えた。


 斉軍は邴夏へいかが斉の頃公けいこうを御し、逢丑父ほうきゅうほが車右になり、晋軍は解張かいちょう解張侯かいちょうこう。解は姓、張は字、侯が名)が晋の中軍の将・郤克げきこくを御し、鄭丘緩ていきゅうえん(鄭丘が氏)が車右になる。


 先に仕掛けたのは斉である。頃公が全軍に命じた。


「彼等を翦滅してから朝食にせん」


 頃公は馬に甲(甲冑)をつけず、そのまま晋軍に突撃を仕掛けた。


 国君自ら突撃を掛けたために斉軍には勢いが生まれた。そのため斉の突撃に晋は苦戦した。


 斉の攻撃を受けた郤克は矢傷を負った。結構な重症であり、血が履物まで流れるほどであったが、何とか戦鼓を叩き続ける。戦で戦鼓を鳴らし終えるのは戦が終えた時であり、今鳴らしてしまうと負けたことを意味してしまう。ここで鳴らすのをやめるわけにはいかないのだ。


 それでも重症を負っている郤克が言った。


「私は負傷してしまった」


(この怪我では、何とか治療したい)


 郤克は陣に退き返したいと思い始めた。


 しかし御者の解張が諌めた。


「戦いが始まってから、敵の矢が私の手と肘を貫いております。されど私は矢を折り棄てて御を続けており、左輪は朱殷(赤黒色)に染まっております。それでも負傷したことを言うつもりはありません。吾子あなたも堪えてくださいませ」


 続けて鄭丘緩が言った。


「戦いが始まってから、険しい場所を通る度に、私は車を降りて推してきました。あなたはそれにも気がつかなかったのでしょうか。それほど怪我がひどいのですか?」


 結構ぎりぎりのことをいう男である。それほど切羽詰っているということであろう。


 解張が言った。


「三軍の心はこの車にあり、軍の耳目は我々の旗鼓にあり、進むも退くもこれに従っております。車には退表(退くための旗)がなく、戦鼓には退声(退くための音)がございません。この車を一人が守れば、必ずや勝利を得ます。負傷したからと言って国君の大事を損なうことができましょうか。そもそも、廟で命(出征の訓戒)を受け、社(土地神の社)で脤(祭肉)を受け(出征の儀式を行い)、甲冑を着て武器を執った時、決死の覚悟を抱いたはずではありませんか。戦場で命をかけるのが戎の政(軍人の常道)というものです。死ぬほどの怪我でもないのに堪えられないようでは、軍が瓦解してしまいますぞ」


 解張は左手で手綱を握ると、右手でばちをもって郤克の代わりに戦鼓を叩き始めた。


 郤克が乗った戦車は退き返すことないため、晋軍は彼を守るために前進し、それに続いて斉軍を襲いかかった。


 斉軍は軍の最高指揮官である頃公が突出している状態のため、晋軍が彼の周りを囲み始めると斉軍はこれを守ろうとする。ここで斉と晋の攻守が入れ替わったのだ。


 勢いが無くなった斉軍に対し、晋軍には勢いが生まれている。


 斉軍は逃走を始めた。晋軍はそれを追撃して華不注山を三周した。











 逃走を始めた斉軍を追撃するのは晋の司馬・韓厥かんけつである。


 実は彼は戦いの前日に不思議なことがあった。夢で子輿しよ(韓厥の父)が出てきて、こう言われたのだ。


「明朝は車の左右を避けよ」


 通常では、元帥となる者が戦鼓がある車の中央に立って指揮をとり、元帥ではない場合は、御者が中央に立ち、本人は車左として弓を持ち、右には矛を持った車右が立つものである。


 韓厥は司馬なので車左になるはずだったが、夢に出てきた父の言葉を守り、御者として車の中央に立った。


 韓厥が斉軍を追撃すると、頃公の御者・邴夏が言った。


「あの御者を射ましょう。かれは君子です」


 君子つまり、有能な人間なのだから真っ先に殺せば利益になる。


 しかし頃公は


「君子と知って射るのは非礼である」


 と言うと、韓厥の車左と車右を射た。車左は車から転落し、車右は車中で死んだ。


(夢はこのことを言っていたのか……)


 なお、彼は追撃を続ける。その途中、晋の大夫・綦毋張(綦毋が氏)が車を失ったため、韓厥を追いかけて叫んだ。


「車に乗せてくれ」


(仕方ない)


 韓厥は彼を乗せた。綦毋張は車に乗って左右のどちらかに立とうとすると、韓厥は肘で押して自分の後ろに立たせた。その後、韓厥は体をかがめて車中で倒れた車右の死体が車から落ちないように位置を安定させる。


 それが彼の不運であったかどうか。


 韓厥が体をかがめた隙に、追撃されている頃公の車右・逢丑父が頃公と位置を変えた。


 逃走する頃公の車が華泉(華不注山の麓の泉)に近づいた時、驂(馬車の左右の馬)が木に遮られて動けなくなった。


「逢丑父よ何とかしてくれ」


 しかしながら逢丑父は動かなかった。いや、できなかったという方が正しいだろう。


 数日前、逢丑父は轏(桟車。竹木の車)で寝ていた。すると突然、車の下から蛇が現れ、逢丑父は肘で蛇を打とうとしたが、逆に怪我をしてしまった。


 逢丑父はこのことを隠して車右になっていたのだが、戦車が木に遮られた時、車を推すことができなかった。


 これは晋の車右・鄭丘緩が険路で車から下りて推したという記述に対比しているように見えるため、怪我などは作り話かもしれない。


 その間に韓厥が追いついた。韓厥は手綱を持って前に進むと、頃公に再拝稽首し、觴(杯)と璧を献上して言った。


 当時、敵国の君主の前では「手綱を持って進むこと」「再拝稽首すること」「酒を進めること」が礼だった。


「我が君は群臣に命じ、魯・衛の請いに応えさせましたが、併せてこう命じられました。『輿師(軍)を斉君の地に入れてはならない』私は不幸にも戎行(軍旅の士)に属しているため、今回の出征を避けることができず、また、私が逃げたら両君を辱めることになるのではないかと恐れていました」


 両国の主君のために尽力するべきだと思っていたという意味。


「私は戎士としての不才を報告しなければならない立場におりますが、他に人がいないため、この役を務めさせていただきます」


 この時の原文は「臣辱戎士,敢告不敏,摂官承乏」であり、これは謙遜した言いまわしで、直接の意味は「自分の任務を全うして斉侯を捕えさせていただく」となる。


 すると逢丑父がとっさに頃公を車から下りさせ、華泉で水を取って来るように命じた。


 逢丑父と頃公は立つ場所を変わっており、当時は主君も士卒も同じ軍服を着ていたため、頃公の顔を知らない韓厥は逢丑父を頃公だと思っている。


 頃公と逢丑父は顔も似ていた可能性もある。


 彼の意図を察した頃公は車から下りて逃走し、佐車(副車)に乗って帰国した。佐車は鄭周父ていしゅうほが御し、宛茷えんはいが車右を務めた。


 







 逢丑父を斉君だと思っている韓厥は彼を捕えて郤克に献上した。しかしながら郤克は頃公に会ったことがあり、顔を知っている。


「これは斉君ではないではないか……」


 悔しさを滲みだした彼は逢丑父を殺そうとした。


 殺されることになった逢丑父は叫んだ。


「今後、己の主君のために難を受けようとする者はいなくなるだろう。ここに一人いるが、殺されることになった」


 郤克は冷静な面を持っている。彼の言葉を聞き、言った。


「自分の死によって主君を助けようとした者を殺したら不祥だ。釈放して主君に仕える者の励みとしようではないか」


 一方、難を逃れた頃公は逢丑父を求めて三回、出陣した。


 一回目は晋軍に入り込むものの、逢丑父を得ることができず退き還し、二回目は狄卒(狄には車がないため、卒といいます)を攻めて退き還し、三回目は衛軍を攻めて退き還した。


 三回とも、斉の将兵が頃公を厳重に守って行動した。狄と衛は晋と同盟していましたが、どちらの兵も危害を加えようとせず、逆に頃公を守ったため、頃公は怪我することがなかった。


 だが、もはやこれ以上戦の継続は難しいものがあった。



 斉軍は退却を始め、徐関(斉地)に入った。頃公は関を守る者に


「勉めよ、斉軍は敗れてしまった」


 と声をかけた。


 すると一人の女子が頃公の進路を塞いだ。


「貴様、国君のお通りである。道を開け」


 兵が道を開くように命じると、女子はこう言った。


「主公は禍から逃れることができましたか?」


 頃公が答えた。


「免れることができた」


 次に女子が聞いた。


「鋭司徒(鋭は矛に似た武器。鋭司徒は鋭を管理する官のこと)は逃れることができましたが?」


 頃公が答えた。


「逃れることができた」


 女子は


「主公と私の父が禍から逃れることができたのであれば、何も言うことはございません」


 と言うと、走って去った。


「礼のある者である」


 頃公は、先に主君の安否を尋ね、後から父のことを聞いた女子に礼があると思い、調査をさせた。


 暫くして辟司徒(壁司徒。塁壁を管理する官)の妻だとわかり、石窌(斉の地名)を封邑として与えた。


 晋軍は斉軍を追撃して丘輿(斉の邑)を経由し、馬陘(または「馬陵」)を攻撃した。




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