餘勇可賈
孫良夫は新築まで戻ったが、彼は自尊心が強く、先の敗戦という事実を受け入れることができなかった。
(この私が失敗など、ありえん)
ここでの彼の行動力は中々のものがある。彼は国都には入らず、晋に行き、援軍を求めた。ちょうど事の時、魯の臧孫許も晋に出兵を請いに来ていた。
二人は斉に怨みをもっている郤克を訪ねた。郤克としてはこれは絶好の機会である。自分の復讐と共に大義名分を添えることができる。
郤克は晋の景公に出兵を請う。景公としては晋の覇権を取り戻したいことを考えており、衛、魯を救うとするのであれば、軍を出すべきだろうと考えた。そこで彼は七百乗を出すことを許した。
すると郤克が言った。
「それは城濮の役の数です。城濮では先君の明察と先大夫の能力によって勝利を得ることができましたが、私は先大夫と較べますとその役(僕。御者)の能力にも達していません。八百乗の出征をお許しください」
もっと兵を出して欲しいという意見である。流石にこの申し出にむっとした景公であったが、同意した。
「遂に戦が起きるか……」
出兵することが決まったことを父に報告した士燮に対し、士会は白くなった髭を撫でる。
「この戦勝てましょうか?」
「さあな、どのような戦でも絶対は無い。ただ克殿は若干甘い」
数々の戦を経験した士会からすると郤克の戦を行う上での準備が甘い。
「既に少し補いはしたがな。息子よ。戦では克殿をよく補佐せよ」
「承知しました」
父が何をしようとするのかわからないが、父のことを信頼している彼は拝礼した。
こうして中軍の将・郤克、上軍の佐・士燮、下軍の将・欒書(下軍の将は趙朔であったが、既に世を去っている)および司馬(軍法を掌る官)・韓厥が魯・衛救援の軍を率いて出征した。
この戦いでは中軍の佐、上軍の将、下軍の佐は参軍していない。流石に郤克としても国の守りを薄くするわけにはいかないという判断であろう。
臧孫許が晋軍を迎え入れて先導し、季孫行父も魯軍を率いてこれに合流した。晋・魯連合軍はそのまま衛に入る。
魯軍は季孫行父、臧孫許の他に叔孫僑如、公孫嬰斉(公孫叔肸(魯の宣公の弟)の子。仲嬰斉。声伯ともいう)も師を率いています。衛軍を率いるのは孫良夫、曹の公子・首(または「手」)もこれに参加する。
この時、晋軍である人が軍法に背いたため、韓厥が斬ろうとした。郤克が助けるために駆けつけたが、処刑されてしまうということがあった。
郤克はすぐに死体を軍中に晒すように指示を出した。郤克の僕(御者)が疑問に思い言った。
「彼を助けたかったのではないのですか?」
郤克はこう答えた。
「私がこう命じることで、司馬に対する誹謗を分散させることができるだろう」
ある意味、彼は趙盾が行ったことと同じである。しかしながらこの行為は韓厥の心を得ることができなかったようである。
韓厥からすれば、趙盾の真似をしたに過ぎず、郤克は趙盾の度量に及ばないというのが、彼の見方である。人の心を掴むのは難しいものだ。
この時、斉は衛から兵を退きあげた。衛を救うという意味では、目的は果たしたというべきだが、郤克は斉をたたきつぶしたいため、晋・魯・衛連合軍は斉軍を追って莘に駐軍した。
六月、連合軍が靡笄山の麓に至った。
これを受けて斉の頃公が決戦を挑んで晋軍にこう伝えた。
「貴方が君師(国君の軍)を率いて我が国に訪れた。我が兵は強くないが、詰朝(明朝)、相見しようではないか」
郤克が応えた。
「晋と魯・衛は兄弟である。その兄弟が『大国が朝夕とも我が地で釈憾(憂さ晴らし)している』と訴えてきた。我が君は忍ぶことができず、群臣を派遣して大国に撤兵を請わせた。しかし我が君は同時に『大国の地に長く滞在してはならない(速決しなければならない)』とも命じた。進むことはできても退くことはできない。貴君の命を辱めることはない」
明朝決戦するという要求を受け入れようではないかという意味である。
頃公が言った。
「大夫の同意は我が願いである。しかしたとえ同意がなかったとしても、互いに会う必要があるだろう」
こうして晋率いる連合軍と斉の戦いが始まった。
斉の高固が晋陣に接近し、石を持ち上げると晋軍に投げ、石が中って倒れた晋人が捕虜にするなど暴れまわった。
帰還した高固は自分の車に桑の根をつけて斉の陣営を走りまわり、
「勇気が欲しい者は私の余った勇気を買え(欲勇者賈余餘勇)」
と言った。桑の根をつけたのは、他の車と違いを作って敢えて自分がいる場所が分かるようにするためである。
ここから「餘勇可賈(余った勇気を買うことができる)」という成語ができた。勇気が有り余っていることを表現しているのだが、それを晏弱、蔡朝、南郭偃が苦笑しながら見ていた。
「全く、良く言うものだ。あの時にあれぐらいの勇気を見せてくれればあのような苦労はしなかったというのに」
「全くだ」
蔡朝と南郭偃は高固を非難する。
「あの方も大変なのだろう」
晏弱はそういった。自分たちの地位よりも高固は高い地位にいる。高い地位にいればいるほど、その地位での責任は重くなるものだ。
(少なくとも国のために闘おうという意識はある)
彼は高固にそれほど悪感情は無い。
「だが、あの時、勇気があったのは晏弱殿だけだ」
「その通り、その意味では我らも勇気がなかった」
二人は口々に言う。
「私など、大したものではない」
彼は謙遜した。
勇気とは難しいものである。勇気が行き過ぎれば、無謀となり、慎重すぎれば、臆病となる。それは戦場だけではなく、ほかの場所でもそうである。
(勇気は教えることも教わることも難しい)
もし、勇気とは何かと問われた時、直ぐに答えを出せる自身が晏弱にはなかった。
(それでも勇気というものを息子に教えなければならないのが、親というものの難しさだ)
そう思いながら彼は空を見上げた。
(私はどれほど勇気というものを我が子に教えてあげられるのであろうか……)
ふと、そんなことを晏弱は思った。




