清丘の盟
冬、楚の荘王が䔥討伐を行うため、軍を動かした。未だ晋とつながっていたからだ。
宋の華椒が蔡軍を率いて䔥を援けに向かった。
荘王のこの出兵は結構な無理を強いていると言っていい。今年だけで鄭への侵攻、晋との大戦など、軍事行動が多すぎるのだ。
そのため楚の兵は強兵とはいえ、疲れが出ていた。
巫臣が荘王に言った。
「多くの師人(将兵)が寒さに苦しんでいます」
撤退を彼は進めた。荘王はここまで兵に無理を強いたことは無い。それにも関わらず、何故、王は無理をさせようとしているのだろうかと彼は疑問に思った。
荘王は晋との大戦で、晋の息の根を完全に止められなかったため、今度は晋とのつながりともっている国を潰して回ることにしたのだ。
(晋とのつながりをもっているにも関わらず、救援を求められないとなれば、晋にそっぽを向くようになるだろう)
そういう考えの元、彼は軍を動かした。
(だが、兵の疲弊は事実だ。どうにかしなければならない)
そこで荘王は三軍を巡視し、自ら将士に触れて慰労した。王自ら行った行為に三軍の士気が上がった。
兵たちから荘王は絶大な人気がある。楚軍は䔥になんとかたどり着くことができた。しかしながら幾ら士気が上がっていても、疲れがあることは変わらない。そのため楚軍は䔥軍と激突すると破れた。
この戦いで䔥は楚の熊相宜僚(熊相が氏)と公子・丙を捕えた。
荘王は使者を出して
「二人を殺すな。我々は兵を退く」
と伝えたが、䔥は二人を殺してしまった。
これに激怒した荘王は䔥を包囲攻撃した。
䔥の大夫・還無社が楚の司馬・卯(大夫)を通して知人の申叔展(楚の大夫)を呼び出した。どうにか和睦に持ち込むように命令を受けていたからだ。しかしながら彼個人としては最早、和睦は無理だと判断していた。
申叔展は還無社に会うとこう聞いた。
「麦麯(薬酒の一種)があるか?」
還無社はいきなりそのような質問を受けて、疑問に覚えながら
「無い」
と答えた。すると申叔展は続けて、
「山鞠窮(薬草の一種)があるか?」
と聞きなおした。
眉を顰めて還無社は再び、
「無い」
と答えた。
申叔展はため息をついて、
「河魚腹疾(風湿。湿気による関節の病)になったら汝はどうするつもりだ?」
と聞いた。これを聞き、彼はあっと思った。
この奇妙な会話は隠語で成り立っている。䔥と楚は対峙していたため、二人は友人でありながら普通に会話ができない。そのため申叔展は隠語を用いることにしたのだ。
麦麯と山鞠窮はどちらも湿気による疾病を治す薬であり、申叔展が二つの薬の有無を聞いたのは、翌日、楚の総攻撃が始まるため沼澤を通って逃げろという意味があった。
だが、還無社はそれに気づかず、「無い」と答えた。そこで申叔展はもっとわかりやすくするために、病の名を出したのだ。
その意図に気付いた還無社が言った。
「枯れた井戸を探してくれ」
申叔展はやっと気づいたかと思いながら
「茅草の縄を井戸の傍に置いておけ、井戸に向かって哭くのが合図だ」
と言って、二人は別れた。
十二月、䔥は楚に滅ぼされた。
申叔視は茅の縄が置かれた井戸を見つけ、中に向かって号哭し、井戸の中に隠れていた還無社は無事助け出された。
この頃、晋の先縠、宋の華椒、衛の孔達と曹人が清丘(衛地)で盟を結んだ。
「困難がある国を援け、二心を持つ国を討伐する」
と、この会盟で約束されたのだが、この約束はすぐ破られた。
当時、陳が楚に従っていたため、宋が盟約に従って陳を攻撃した。
すると衛の孔達がこう言った。
「先君の約言がある(衛の成公と陳の共公は友好関係にあり、晋が衛を攻めた時、陳は衛に協力を約束した)。もし大国(晋)が攻めてきたら、私が死ねばいい」
彼はそう言って軍を率いて陳を援けるために兵を出した。
紀元前596年
夏、荘王が宋を攻めた。楚が䔥を攻めた時、宋が䔥を援けたためである。
君子は「清丘の盟(前年)においては、宋だけが非難から逃れることができる」と言った。
清丘の盟に参加した晋、宋、衛のうち、宋は楚と対立し、楚の同盟国である陳も討伐したが、衛は逆に陳を援け、晋は楚に攻撃された宋を援けなかったためである。
晋の先縠は前年の邲の戦いで消極的な荀林父の指揮に不満を持っており、先穀自身は主戦論者だったため、敗戦の責任も大きく、国人の風当たりが強くなっていた。
(おのれ、全てはあの男のせいではないか)
彼は自分のことは棚に上げて、荀林父を罵る。
(だが、このままでは……)
それでも人々は彼の責任追求をやめてはいなかった。彼は名門意識が高いためにそのことに耐えられなかった。
そこで政変を画策し始め、赤狄と結んだ。赤狄は晋を攻めて清(清原)に至った。
この状況に晋は動揺するが、その状況を先縠はにやにやと見つめる。彼の考えとしてはここで荀林父らが迎撃に出ている間に都を制圧するというものである。
だが、そう上手くはいかない。荀林父は言った。
「私が軍を率いて、狄と対する。士会よ。ここの守りは汝に任せる。他の者は士会の指示に従ってくれ」
(荀林父だけで戦をするというのか。不味いぞ)
「荀林父殿、狄は勇猛で知られております。荀林父だけでは……」
「本来であれば、あなたがここの守備を任せたいのだが、先縠殿が病故に軍を率いるのは難しいとお聞きしましてな。そこで士会殿に任せるのが良いと考えました。ご心配はいりませぬ。私は狄のことは良く知っておりますので」
そこまで言って、彼は士会の方を向いて、
「頼んだぞ」
「御意」
士会は拝礼をもって答える。それに頷くと彼は軍を率いて狄と対した。
荀林父は敢えて、相手とことを構えず、交渉を行った。彼は元々、狄のことを良く知っており、その性質を理解している。
そのため交渉を粘り強く行い、何とか彼らの軍事行動を治めることに成功した。
「荀林父殿は元々良識の方だ。交渉事には強い方だ」
士会は彼を褒めた。
「士会殿、実は狄との交渉でこういうものが出てきた」
荀林父は士会に書簡を手渡した。
「愚かなことを……許すわけにはいきません。ここは断固とした態度を見せた方が良い」
そこには先縠が裏で手を引いていた証拠が書かれていた。
士会の言葉に彼は頷き、直ぐ様、晋の景公に書簡の内容を告げた。
「許すべき罪に在らず、直ぐ様処罰するべし」
「御意」
冬、邲の敗戦と清の戦い(赤狄の侵攻)の罪を問い、先縠と族人を皆殺しにした。こうして名門先氏は滅んだ。
処刑される時、先縠は荀林父を罵った。
「荀林父、貴様は生き、私が死ぬことになるとはどういうことだ。死ぬべきは汝ではないか」
「そう、確かにあの戦いで私は失態を犯した。だからこそ私はその失態から逃げようとはせん」
かつて犯した失態は何一つ変わることはない。そのことは誰よりも彼が知っている。だが、死を選ぼうとは思わない。
(私は生きて己の職務を果たす)
それが今、自分ができる唯一のことであろう。
「汝は高位な地位にありながら失態から目を背け、死を選ぶどころか。多くの者を死に至らせようとした。高位にある者として恥を知れ」
先縠は死を選ぶどころか多くの人を巻き込もうとした。恥の上塗りとはこのことであろう。
それを見ていた士会は息子の士燮に言った。
「本当の恥という者を知る者にしかあのような生き方はできない。息子よ。お前は恥をかくことなく生きてきた。覚えておけ、恥を知り、それを罵られながら生きてきた者はそれを知らぬ者を超えることがある。その強さをもっている者を尊敬せよ。さすれば必ずやそれはお前の宝となる」
「はい、父上」
(父として息子にどれだけ恥や失敗というものを教えてあげることができるのだろうか……)
士会はそう呟いた。




