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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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楚の荘王

 この戦いで晋のある兵車が穴にはまって動けなくなるということがあった。


 追撃していた楚兵は車前の横木をはずせば穴から出ることができると教えた。


 晋の兵車はやっと脱出したが、今度は少し進むと馬が同じところを回って前に進まなくなった。


 またしても楚兵は旆(大旗)と衡(馬の動きを規制する横木)をはずして車を軽くして馬を動きやすくするように教えた。


 この出来事は、楚には晋を急追するつもりがないことを示しており、戦勝した楚の荘王そうおうはこう言っている。


「我々両君は仲が良くないものの、民には罪はない」


 楚兵は荘王の意志に従い、晋軍を追いつめなかったのだ。


 一方、助けてもらった晋兵は振り返ると嘲笑してこう言ったという。


「我々は大国(楚)の人々のように何度も逃げ回ったことがない」


 つまり楚兵のように逃げることに慣れていないため、我々はどうすればいいかわからなかったのだと言っているのだ。


 敗れてもこんなに驕慢では、負けるのは当たり前だろう。


 一方、荘王の風格はどうだろうか。正に覇者というべきではないか。


 日が暮れる頃、楚軍は邲(鄭地)に駐軍した。晋の残った軍は戦う能力がなく、夜を通して黄河を渡った。


 楚軍の大勝であった。


 


 その後、楚の輜重が邲に到着した。楚軍は衡雍に駐軍する。


 潘党はんとうが荘王に言った。


「なぜ武軍を築き、晋の屍を集めて京観としないのですか。敵に勝利すれば、功績を子孫に示し、武功を忘れないようにするものです」


 武軍と京観は同じ意味で、敵兵の死体を積んで土をかぶせた高台のことをいう。


 荘王は言った。


「汝は分かっていないな。『武』という文字は『止』と『戈』でなりたっている。武王は商に勝って『頌(詩経・周頌・時邁)』を作り、こう歌った『干戈を納め、弓矢をしまわん。我は美徳を求め、夏楽(音楽の名。夏は大の意味)にそれを述べ、王となって天下を保つ』また、『武(詩経・周頌・武)』を作り、最後にこう歌った『紂を滅ぼしてその功を定めん』。『武』の第三章(今の『詩経』では『周頌・賚』。当時と今では『詩経』の章の立て方が異なったようである)にはこうある『先王の美徳を継ぎて我、安定を求めん』その第六章(今の『詩経』では『周頌・桓』)にはこうある『全国を安じ、毎年稔有り』武とは暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を安定させ、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにして、子孫にその大功を忘れさせないためにある。今、私は二国の骨を晒させてしまった。これは暴である。兵力によって諸侯に威を示したが、これでは戦いはなくならない。暴を禁じず、戦を止めさせることもできないようでは、国の大(強さ)を保つことはできないではないか。晋が存在している間は、功業を安定させることもできず。民の願いに背くことが多ければ、民を安んじることもできない。徳がないのに力で諸侯と争えば、衆を和すこともできない。人の危機を自分の利とし、人の乱に乗じて自分の栄えとするようでは、財を豊かにすることもできない。武には七徳(禁暴・停戦・保大・定功・安民・和衆・豊財)があるが、晋に武を用いた私自身に一徳もないようでは、子孫に功績を示すことはできない。先君の宮(廟)を建てて戦勝の報告をするだけで充分ではないか。そもそも、武は私が求める功ではないのだ。古の明王は不敬な者を討伐し、鯨鯢(海中の大魚。ここでは元凶という意味)を殺し、その一党を誅滅したために京観を築いて懲らしめとしたのだ。今、晋の罪は明らかではなく、その民も忠を尽くして君命のために死んだ。京観を作って懲らしめるべきではない」


 荘王はその後、河神を祭り、先君の宮を造り、戦勝の報告をして兵を還した。


「王よ、あれはどうしますか?」


「人の乱にはつけ込まないものだ。鄭に密かに伝えよ」


 邲の戦いの前、鄭の石制せきせい子服しふく)が楚と内通して出兵を誘うていた。


 鄭を分裂させて半分を楚に与え、半分は公子・魚臣ぎょしん僕叔ぼくしゅく)を擁立して政権を握ろうとしたのだ。


 鄭がこれを知ると二人を捕らえて殺した。


 楚の勝利の後、鄭の襄公じょうこうと許の昭公しょうこうが楚に入朝した。


 荘王はこうして鄭と許を帰順させ、晋軍にも大勝したがこの戦いにおいて楚の将軍・子重しじゅうが三回進言していたが、三回とも満足できる内容ではなかったため聞かなかった。


 荘王は凱旋する時、申叔時しゅんしゅくじの邑を通った。


 申叔時が食事を準備してもてなしが、日中になっても荘王は食事をとらなかった。


 彼は自分に落ち度があると思い、荘王に謝罪する。すると荘王はこう言った。


「私はこう聞いたことがある。『国君が賢人であるのであれば、能力がある者が国君を援けて王業を成すことができるものだ。国君が中君(普通)でも、能力がある者が国君を援けて覇業を成すことができるものだ。されど国君が下君(劣る)で、しかも群臣が国君に劣るようならば、その国は滅ぶ』と、私は下君である。そして群臣(子重等)にも私に勝る者はいない。このままでは我が国は滅ぶのではないか。世には聖人が絶えることなく現れ、国には賢人が絶えることなく現れるものだ。しかし私だけは聖人や賢人を得ることができない。私のように生きている者が、なぜ食事などできようか」


 荘王は常に自分を戒めようと心がけていた。そのためこういう話しがある。


 当時、楚では天変地異が起きず、平穏な日々が続いていた。荘王は山川に祈祷してこう言った。


「天は私を忘れたのですか」


 当時の人々は、国君の過ちを戒めるために天変地異が起きると考えていた。それがないということは、通常の国君なら自分の政治が素晴らしいためだと考えるのだが、荘王は天が自分を忘れているために、戒めを与えようとしないのだと考えた。


『説苑』は


「このように天に戒めを求めることができた荘王は、諫言に逆らうことなく、安泰の時でも危難を忘れることもなかった。だから覇業を成すことができたのだ」


 と評価している。


 正に覇者というべき男である。


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