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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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士会

「晋軍が動いた」


 その報告は楚軍全体に伝わった。


「王はどこにおられるのだ」


「左広の車に乗られている」


「では、王は晋軍に包囲されてしまうぞ」


 楚軍は趙旃ちょうせんを駆逐した楚の荘王そうおうが晋軍に包囲されることを恐れた。


 中軍の指揮官である孫叔敖そんしゅくごう)が言った。


「進攻するべきだ。我々が人を逼迫することがあっても、人が我々を逼迫することがあってはならない。『詩経(小雅・六月)』にはこうある『戦車十乗が先行して道を開かん』これは敵より先んずるという意味である。また、『軍志(兵書。佚書)』にはこうある『人に先んずれば、敵の意志を奪わん』これは敵を逼迫するということだ。全軍前進」


 楚軍は兵も車も疾駆させて晋軍に襲いかかった。


 自軍の状況に荘王は唸る。


(全く、勝手に軍を動かしたな)


 その後、晋軍を見て、


(まあ勝てるだろう。後は、天命を待つだけだ)


 荘王は天を見上げ、手を伸ばす。








 荘王に追い返された趙旃ちょうせんは、二頭の良馬に車を牽かせて兄と叔父を逃げさせると、他の馬に自分の車を牽かせて退却を始めた。しかし楚軍に遭遇して動けなくなったため、車を棄てて林に逃げた。(二回目の逃避である)


 この時、晋の逢大夫が二人の子を車に乗せて逃げて来た。


 逢大夫は趙旃を見つけたが、助けたくないため二人の子に


「振り返ってはならない」


 と命じた。しかし二人の子は振り返り、


「趙傁(傁は叟と同じで年長の男)が後ろにいます」


 と言った。


 逢大夫は怒って二人を降ろすと、近くの木を指さして


「ここで汝等の屍を拾うことになるだろう」


 そう言って逢大夫は趙旃に縄を渡して車に乗せ、二人の子を置いて逃走した。その目には涙が浮かんでいた。


 こうして趙旃は助かったが、翌日、二人の子が木の下で重なって殺されているのが発見された。逢大夫の悲しみは計り知れないだろう。


 楚の大夫・熊負羈ゆうふきが退却中の知罃ちおう(字は子羽しう荀首じゅんしゅの子)を捕えたため、荀首が族人を率いて退き返した。


「やれやれ困ったものだな」


 魏錡ぎきが御者になり、下軍の多くの士が従う。


 荀首は自分が背負っている矢袋から矢を取り出すと、射る前に確認し、良い矢だったら使わないで魏錡が背負っている矢袋に入れた。(魏錡は御者なので荀首の前にいる)


 これに魏錡が怒って言った。


「あなたは自分の子を求めようとはせずに蒲(矢の材料)を惜しむのですか。董沢(地名。矢の材料となる植物を産出する場所)の蒲が、勝利をもたらすというのでしょうか」


 荀首はやれやれと首を振り、言った。


「人の子を得なければ、私の子を得ることもできないではないか。むやみに良い矢を使ってはならないのだ」


(子を救うためとはいえ、人の人生を握りつぶすか……いつの時もやなもんだ)


 その後、楚軍に遭遇した荀首は連尹(官名)・襄老じょうろうを射殺してその死体を車に乗せ、公子・穀臣こくしんを射て捕えてから、兵を還した。


(悪いね。これでも息子は可愛いものなのさ)


 後に襄老の死体と公子・穀臣が楚に返され、知罃は釈放されることになる。






 一方、楚軍が一気に動くとは考えてなかったため、勢いに圧倒された晋の荀林父じゅんりんぼは軍中で戦鼓を叩き、


「先に黄河を渡った者には賞を与えよう」


 と宣言した。恐怖で退却の命令を出してしまったことになる。


 これを聞いた晋軍は一斉に後退を始め、中軍と下軍が黄河に向かっていく。


 中軍大夫の趙嬰斉ちょうえいせいが事前に舟を準備していたため荀林父を始め多くの者が救われた。


「良く用意してくれた」


「有り難きお言葉です」


 だが、渡河できたのは一部の将兵だけであり、兵達は数少ない舟を争い始める。


 兵が岸を離れた舟に乗ろうとし、舟のへりに手をかけた途端、舟上の兵は重さで船が沈むことを恐れてその兵たちの指を斬った。それにより黄河に捨てられる者が続出する。


 舟中に斬り落とされた指はすくって捨てるほどあったと言われている。正に地獄絵図であった。


 晋の下軍に対したのは楚の工尹・せいが率いる右拒(右の方陣)である。彼は撤退する晋軍を追撃する。


 晋の上軍に対したのは唐の恵侯けいこう潘党はんとうである。


 戦いの前に荘王が大夫である唐狡とうこう蔡鳩居さいきゅうきょを唐に送り、恵侯に伝えた。


「私は不徳かつ貪欲なため、大敵を招いております。これは私の罪でございます。しかしもし楚が敗れたら、貴君の恥にもなる。貴君の霊(福。援け)を借りて、楚軍を成功させたい」


 腰が低そうな文章だが、参加しなければどうなるかという脅しもある。


 恵侯は出兵に同意し、潘党と共に楚の左拒を形成し、游闕(予備の車)四十乗を率いて晋の上軍と対峙した。


 晋の中軍と下軍が右(黄河方面)に移ったが、上軍は動かなかった。何より静かであった。


「あの晋軍、やけに静かだ」


「恐らく我らに恐れて、動けないのでは?」


 潘党が警戒するものの、恵侯は特になんとも思わず、軍を動かした。

















 郤克げきこくは自分たちに迫ってくる楚軍を眺める。


「来たか」


 彼は士会しかいの方に振り向き、


「どうなさいますか?」


 と聞いた。すると郤錡げききが言った。


「向かい打ちましょうぞ」


「孺子、黙っておけ」


 郤克が息子を叱りつける。叱られた郤錡はそっぽを向く。それを見て、士会は、


(似ているな)


 苦笑しつつ士会はこう答えた。


「楚軍は強壮だ。兵力を集中した楚軍に我が軍だけで戦っても全滅する可能性の方が高い。故に我々は兵をまとめて撤退するほうが良い。敗戦の誹謗を諸将と分け合い、民(兵)を活かすことのも悪くはない」


 彼は今度はからからと笑う。この戦いの大勢は喫している。それならば、多くの者を救う方が良いだろう。


「将軍ならば、勝てるのではありませんか?」


 郤克は彼に言った。


「克殿、将というものは様々な状況において、柔軟に対処せねばならない。戦は勝つことよりもどう負けるかの方を考えねばならない時がある」


 この状況から無理すれば、兵を多く失う。既に中軍と下軍が大きな被害を出している。それにも関わらず、上軍まで被害を出してしまえばどうなるか。


(この国は立て直すことは不可能になってしまう)


 ここで士会が目指したのはこの戦より先の未来であった。


「さあ、あらかじめ伏せといた兵に指示を出せ、我が軍はこれより撤退する」


 日が暮れようとしている。周りは暗くなりつつあった。


(あの時は真っ暗だった。あの時に比べれば兵の位置が手に取るようにわかる)


未熟だったかつての自分、多くの兵を犠牲にした自分、主と思えた人を救えなかった自分、それらかつての自分を今、超える。


「戦鼓を打ち鳴らせ、晋の意地を見せるはここぞ」


 あらかじめ七カ所に伏兵を置いていた士会は、自ら後殿しんがりとなり、秩序を保ったまま退却を始めた。


 士会が率いる上軍に対し、楚軍は被害を与えることができない。楚軍に臨機応変さがないこともあるが、現れては消え、現れては消え、まるで亡霊の如き、士会の兵術に楚軍はきりきり舞いになってしまったのだ。


 そのため晋の中軍と下軍が壊滅する中、上軍だけは軍容を損なわなわずに撤退した。


 撤退戦は戦を行う上でもっとも難しいものである。それだけに彼の兵術は正に神の如しであった。

















 その頃、荘王は陣に戻って右広の戦車に移ろうとしていた。すると屈蕩くつとうが言った。


「主君はここ(左広)で戦を始めました。ここで戦を終えるべきです」


 この後の戦いでは、歴代の楚王は先に左広の車に乗ることになるのだが、荘王が右広の戦車に移ろうとしたのは上軍に対する楚軍に直接、指示を出すためであった。


 その後、上軍に対し、追い返したという報告が来た。


「追い返した……破ったということではないのか?」


 荘王の傍に来ていた孫叔敖が言った。


「どうやら上軍の将が用意した伏兵に惑わされ、被害を与えられなかったそうです」


 それを聞いた荘王は書簡を地面に叩きつけた。


「くそ、上軍の将は士会であったな」


「はい」


 荘王は士会という名将に対し、大きな被害がこちらに出ないように配慮した配置をしたのだが、それが失敗であったと判断した。


 彼は勝つということは徹底的に勝つことだと考えている。相手の力を完全に削ぎ、相手の心を屈服させるものでなければならない。


 だが、士会という男はそれに対し、徹底的に負けない戦を行った。その結果、士会の率いる軍には全くと言っていいほど被害が出ていない。


「孫叔敖よ」


「はい」


「汝の父であれば、やつに勝てたか?」


 荘王は問うた。


「わかりませぬ。父は私に兵術に関してのことは一切教えませんでしたから……」


「そうか」


 彼らは口を閉ざし、戦の終幕を眺めた。




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