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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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邲の戦い

 楚の荘王そうおうと晋の荀林父じゅんりんぼは互いにここでの決戦を望まず、講和を行おうとし、会盟の日が決められた。


 上層部のこのような動きに対し、一般の兵は熱を持っていた。晋と楚の両軍がこれほどの大軍で対峙しているのである。


 かつての大戦のような状況に兵たちは驚きと共に高揚感も得ていた。ここでの戦いが天下の行く末を決めるものだという思いがあるからだ。


 それは一種の熱狂となり、互いを睨みつけ合う。


 先にその熱に動かされたのは楚の許伯きょはく楽伯がくはく攝叔せっしゅくであった。


 彼らは晋に致師したのである。致師とは戦いを挑むことをいい、謂わば、相手への挑発を行うことである。


 許伯が車を御し、楽伯が弓矢を持って左に、攝叔が戈と盾を持って右に乗った。


 許伯が言った。


「致師というのは、御者は旗が傾くほどに車を疾駆させ、敵営に近接して還るものだと聞いている」


 楽伯が言った。


「致師というのは、車左は良矢で敵を射ち、御者が車を降りれば御者の代わりに轡を取り、馬を整えれば還るものだと聞いている」


 致師では車右が車から下りて敵陣に乗り込み、その間に御者が馬の向きを変えて帰還の準備をを行う。


 攝叔が言った。


「致師というのは、車右が敵営に入って馘(殺した敵兵の左耳)を取り、捕虜を得て還るものだと聞いている」


 三人は晋陣に突進し、それぞれの役目を果たして引き上げた。晋軍が三人を追撃して左右から挟撃しようとする。


 楽伯は追ってくる左右の兵や馬を射た。それに驚き、晋軍の動きが止まる。しかし楽伯の矢はもはや一本しか残っていない。


(これ以上の追撃を食らうのはきついな)


 すると突然、麋鹿が現れた。


(お、これはこれは)


 楽伯は狙いを定めてこれを射た。矢は真っ直ぐ麋鹿の背に向かい命中した。


 彼らを追いかけていた晋の鮑癸はうきが追いつくと、楽伯は攝叔に麋鹿を献上させた。


 攝叔が鮑癸に言った。


「まだその時期ではないが献上するべき禽獣が現れないため、これを献上する。従者の膳にしてくださいな」


 麋は夏に献上する動物とされていた。この時、周暦では六月であるが、晋暦では四月の初夏であるため献上するべき時期ではなかったため、彼はこう言ったのである。


 鮑癸は兵を止め、


「車左は射術を善くし、車右は辞を善くする。彼等は君子(立派な人物)だ」


 彼は兵を退いた。そのため三人とも無事に帰還した。









 楚が挑発行為が行われた中、晋は尚も楚との講和を望んでいた。だが、講和を望んでいない者もいる。


 かつて晋の魏錡ぎき呂錡りょき魏犨ぎしゅうの子、または孫と言われている)は公族大夫の地位を求めていたが得ることができなかったため不満を持ち、晋軍の失敗を望んでいた。


 上にいる者が失敗すれば昇格の機会が巡ってくると考えていたからである。浅ましいことこの上ない。


 魏錡は主戦派として致師の任務を買って出た。しかし講和を望んでいる荀林父はこれを拒否する。だが、使者として楚陣に行くことは許可された。


 荀林父は致命的な甘さを見せた。荀林父は彼を講和の使者として出したが、魏錡は交戦を要求するために楚陣に赴いた。


 これに趙旃ちょうせん趙穿ちょうせんの子で)も付いていった。彼は卿の地位を望んでいたが得ることができなかったため不満を持っていたのである。


 また、楚の致師(楽伯等)を逃したことにも怒って出陣を請いていたが許可されなかったというのもある。そこで会盟を請う使者として魏錡と共に楚陣に行くことを願い出て許されたのだ。


 魏錡と趙旃が楚陣に向かった時、郤克げきこくが言った。


「二人は不満を持っています。備えをしておかなければ必ず敗れましょう」


 それに対し先縠はやる気が無さそうに言った。


「鄭が戦いを勧めても従おうとはせず、楚が講和を求めても関係を改善できない。出征しながら一定の策略がないのにも関わらず、備えを増やしても役には立たないではないか」


 この言葉に士会しかいは眉を上げる。


(この男……やる気が無くなっている)


 彼は楚との戦いはあれほど望んでいたにも関わらず、いざ楚を目の前にするとやる気を失っている。


(あれが名将の血を引く男なのか)


 彼は憮然とした表情のまま言った。


「備えをしておいた方がいい良い。二子がもし楚を怒らせれば、楚はそれを機に我が軍を襲うだろう。備えがなければすぐ滅ぼされてしまう。まずは備えをし、楚に悪意がないと分かった時点でそれを解き、盟を結んでも損することはないではないか。また、楚に悪意があっても備えがあれば敗れることはない。そもそも、普段、諸侯と会う時でも軍衛を除くことはないではないか。これは警(警戒・警護)というものだ」


 士会は鞏朔きょうさく韓穿かんせんに命じて敖山の七カ所に伏兵を置かせた。また、この話しを聞いていた趙嬰斉ちょうえいせいは部下を送って黄河に舟を準備させたがそれを多くの者には伝えていない。これを抜け目が無いと取るか。狡さと取るかは個人による。


 一方、先縠は動こうとはしなかった。軍における第二位の位の男がこの様であった。


 魏錡と趙旃の二人が楚軍に近づくと先ず、魏錡が楚陣に入った。しかし楚の潘党はんとうが魏錡を追い返して熒沢まで追撃した。


 その際、魏錡は六頭の麋鹿に遭遇したため、一頭を射殺すると振り返って潘党に献上し、こう言った。


「あなたは軍事があって忙しいため、獣人(狩猟の官)が新鮮な獲物を献上することがないと思い、あなたの従者のためにこれを献上します」


 潘党はこれを受け取って兵を還らせた。


 


 魏錡は既に潘党に追い返されたが、同日夕方、趙旃が楚陣に接近し、軍門の外に席を設けると部下を営内に入れさせた。


 荘王の右広は早朝の鶏が鳴く時間になると車に乗って戦闘態勢に入り、日中(正午)になると左広と交代する。日が沈むと左広も戦闘態勢を解く、荘王が右広にいる時は、許偃きょえんが御者になり、弓の名手である養由基ようゆうき養叔ようしゅく。養は氏で邑名。由基は名、叔は字)が車右を勤める。荘王が右広にいる時は、彭名ほうめいが御者を、屈蕩くつとうが車右を勤めると決まっていた。


 趙旃が楚陣に接近して部下を営内に派遣させると左広にいた荘王は兵を率いて趙旃を駆逐しようとした。趙旃は車を棄てて林に逃げ込み、屈蕩が車から降りて趙旃と戦い、戦袍を得た。


 魏錡と趙旃が楚陣に向かった後、晋の荀林父等は二人が楚軍を怒らせることを恐れたため、軘車(兵車)を出して迎えに行かせていた。


 ところが、魏錡を追い返した潘党は、遠くに砂塵が舞い上がるのを見て、急いで本陣にこう伝えてしまった。


「晋軍が動いた」


 こうして後に言う邲の戦いが始まったのである。


 

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