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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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人の手から離れ始める戦

 楚の荘王そうおうは鄭との講和がなると北上して郔に駐軍していた。


 令尹・孫叔敖そんしゅくごうが中軍を、子重しちょう(公子・嬰斉えいせい)が左軍を、子反しはん(公子・そく)が右軍を率い、黄河で馬に水を飲ませてから引き上げようとしていた。


 この黄河で水を飲むという行為は北上して中原に至ったことを天下に示すことにつながる。


 ここで荘王は晋の出兵を知った。


「晋が来るのか……」


 しかも互いに大軍を擁した状態である。彼としても晋との決戦は行わねばならないとは考えていた。しかし、今、決戦を行うとは考えていなかった。


(意図しない戦は何が起こるかわからない)


 できるだけ自分の予想通りの戦を行う。それが荘王の戦であった。そのため彼は退却を考えたが、嬖人(寵臣)・伍参ごさんが決戦を主張した。


 彼は伍挙ごきょの父である。以前は隠居していたのだが、伍挙が信任されるようになり、荘王の才能を知ると再び国政に参加した人物である。


 伍参は晋が迫ると聞くと、決戦の時が来たと判断したのである。


 一方、令尹・孫叔敖は交戦に反対した


「我が軍は昨年は陳を攻め、今年は鄭を攻めており、大事(戦争)が続いています。もし晋と戦って勝てなかった場合、伍参を殺してその肉を食べれば憂さ晴らしができるというものではありますまい」


 彼は令尹として民を疲弊させないように政治を行ってきた。しかしながら軍事行動はもっとも民を疲弊させる行動であるため、彼は内政の責任者として、反対した。


 伍参は言った。


「戦って勝利を得ることができれば、孫叔敖殿が無謀ということになりますな。そもそも勝利を得ることができなければ、私の肉は晋軍にあるため、どうして食べることができるだろうか?」


 少し、小馬鹿にしたように彼は言った。彼は孫叔敖には父のような戦の才はないと思っている。


 これに対し孫叔敖は車と旗を南に向けて撤退の準備をした。断固抗議するという意味がある。


「伍参よ。理由を申せ、令尹の言葉は民を思いやるが故の言葉だ。理由を申さねば、納得できないぞ」


 荘王は孫叔敖に戦の才能が無いという以前に立場の違い故の言葉であると理解できている。


 伍参が荘王に言った。


「晋で政事を行っている者(荀林父)は信任してから日が浅く、政令・軍令が行き届いていません。その佐を勤める先縠せんこくは剛愎で仁がないため、命に従わないでしょう。晋の三軍は専権したくてもできず、命に従うにもまともな命を出す者がいません。上がこのようでありながら兵は誰に従うでしょうか。この戦いは、晋軍が必ず敗れます。そもそも、国君(楚王)が臣(晋の卿大夫)から逃げるようでは、社稷の恥となります」


 彼としても何も考えずに戦を行うように言っているのではない。相手のことを総合的に考えた結果の進言なのだ。


 荘王はそれを理解できないような男ではない。彼は孫叔敖に北進を命じ、管に駐軍した。


 晋軍は敖山と鄗山の間に陣を構えた。


 そこに鄭の卿・皇戌こうじゅつが晋の陣に入って言った。


「鄭が楚に従ったのは社稷を存続させるためであり、二心を抱いたわけではございません。楚軍は勝利を重ねて驕っているため備えがなく、しかも遠征が長引いているため、疲弊しております。貴国が楚を撃てば、我ら鄭軍もそれに続きましょう。楚軍は必ず敗れます」


 先縠せんこくがこれに喜び、言った。


「楚を破って鄭を服す好機だ。同意すべし」


 これに欒書らんしょが反対した。


「楚が庸に勝って以来(紀元前611年のこと)、楚君は国政を怠ったことが一日もなく、民には生きることの難しさや、禍は予測ができないことを諭していつも警戒の心を持たせております。軍においても将兵の管理を怠ったことはなく、勝利を保つのは難しいこと、紂王ちゅうおうは百勝したにも関わらず、亡んだこと、若敖や蚡冒が篳路藍縷で(柴車に乗り粗末な服を着て)、山林を伐り開いたことを繰り返し教えています。箴(訓戒)にはこうあります『民の生活は勤勉にかかっている。勤勉であれば窮乏することはない』と、これらのことから、楚が驕慢になっているとは言えませぬ。先大夫・子犯しはん狐偃こえんの字)はこう申しました『師が直であれば(道理があれば)壮であり、曲であれば(道理がなければ)老である』と今、我々には徳がなく、更には楚の怨みを招こうとしています。我々が曲であり、楚に直があるため、楚師を老(疲労している)とはいえません。楚君の軍は二広に分けられ、一広は一卒(三十乗)を擁し、一卒も左右両偏に分けられています。日が明ければ、右広が先に車に乗って戦いに備え、日中(正午)になったら左広に換わります。夜になったら内官(王の近臣)が順番に警戒しております。このような楚軍に備えがないとはいえません。子良しりょうは鄭の良臣であり、師叔ししゅくは楚の崇(尊貴な人)です。師叔が楚に入って盟を結び、子良が人質として楚にいますので、楚と鄭は親しい関係にあり、二心がないというのは偽りでしょう。鄭が我が軍に戦いを勧めるのは、我が軍が勝ったら我が軍に附き、我が軍が負けたら去るためであり、我々を占卜として利用しようとしているのです。鄭の言葉に従ってはなりません」


 欒書はかつての大戦を引き合いに出し、楚との戦いを回避するべきと主張し、更に鄭の卑怯なあり方を非難した。


 これに対し、趙括ちょうかつ趙同ちょうどうが反対した。


「軍を率いて来たのは敵を求めるためである。敵に勝って属国を得ることができるのに何を待つのだろうか。彘子に従うべきだ」


 これに対し、荀首は


「原同(趙同)と屏括(趙括)は自ら禍を求めている」


 と非難し、趙朔ちょうさくが叔父らに対し、反対した。


「欒書殿の言こそ素晴らしいものです。その言に従えば、晋は長く存続できるでしょう。欒書殿の言に従うべきです」


 これに趙括と趙同はむっとした。彼らは趙朔のことを嫌っていた。何故ならば、趙括は兄・趙盾ちょうとんから趙一族の棟梁を任されていながら、それを差し置いて趙朔が下軍の将になっていることが気に入らなかったのである。


 そんな中、楚の少宰(官名)が晋陣に来た。


「我が君は幼い時に凶事に遭ったため文を成すことができません」


 彼の言葉は当時の外交上の決まり文句であり、飾ることができないため、直接意見を述べる、という意味である。


「二人の先君(楚の成王せいおう穆王ぼくおう)がこの道を通ったのは(鄭を攻めたのは)、鄭に教訓を与えてその国を安定させるためでございました。決して晋の罪を得るつもりはございません。二三子(あなた達)が久しくここにいるのは不要でございます」


(楚君は冷静で慎重だ)


 士会しかいはそう思った。荘王にとっても流れで進んでいるこの状況を嫌っているのだろう。


(楚君はできるだけ自分で思い通りに物事を動かしたいたちなのだろう)


 彼は少宰に言った。


「昔、平王へいおうは我が先君・文侯ぶんこう(晋の文公ぶんこうでは無い)に『鄭と共に周室を援けよ。王命を廃してはならない』と命じました。されど此度、鄭がそれに従わないため、我が君(晋の景公けいこう)が群臣を送って鄭に罪を問うたのです。貴国の候人(官吏。ここでは少宰)を煩わせるつもりはございません。恭しく君命を拝すだけです」


 最後の言葉の意味は楚君の命に逆らうつもりはありませんという意味と晋君の命を完遂するだけであり、楚と戦うつもりはありませんという意味がある。


 これを聞いた先縠は士会が楚にへりくだりすぎていると思い、趙括を送って楚の少宰にこう伝えた。


「行人(賓客に対応する官のこと。ここでは楚の使者に答えた士会を指す)の言には誤りがありました。我が君は群臣を派遣し、大国(楚)を鄭から駆逐するように命じてこう言われました『敵から逃げてはならない』と、我々は君命から逃げることはできません」


 堂々とした宣戦布告である。


 これを受け取った荘王は片眉を上げるものの、少宰の報告を聞いて、これが途中で変えられたものであることを知った。


(晋側には交戦派と講和派がいるのか……)


 荘王としてはこの戦をどうにかして回避したいと考えている。彼はやはり、しっかりとした状況を作ってから、戦いたいのである。


(これではまるで天がこの戦を采配しているようではないか)


 自分の手から離れた状態を彼は好まない。


「使者をもう一度出す」


 荘王は和平をあきらめず、改めて使者を送った。使者と相対した晋の荀林父じゅんりんぼも講和は同意した。


 このように互いの最高責任者はどうにか丸く収めようとしていた。だが、戦は起こってしまうことになる。それはまるで天が戦を望んでいたかのようである。


 もし、天が戦を望み、人の血を望んでいるとすれば、人よりも天の方が血に飢えていることになる。


 天の意思とは果たして……


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