夏姫
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楚の荘王の前に夏姫が引き出された。彼女を見た彼の感想は、
(綺麗だな)
それだけである。
(稀代の美女と聞いていたが、それほどでも無いな)
歴史上に現れた悪女と言われる女性のような魔性的な不気味さや、怖さといったぞっとする美しさや賢女と言われた人格的な美しさや知的な閃きのようなものを彼女には感じられない。敢えて言えば、夏姫という人はどこか空虚である。
(綺麗なだけで平凡な女性ではないか)
荘王はそう思った。
「王よ。後宮に入れますか?」
近臣の一人がそう言った。
(まあ、良いか)
ここで彼がそう思ったのは、彼女の美貌に惚れたということではなく、取り敢えず後宮に引き取っておいて、後で誰かにやろうという考えがあった。
その時、巫臣がそれを諌めた。
「いけません。王が諸侯を集めたましたのは、夏氏の罪を討つためです。夏姫を納れてしまえば、色を貪ることになります。貪色とは淫であり、淫とは大罰です。『周書(尚書・康誥)』にこうあります。『徳を明らかにし、罰を慎む』文王が周を建てることができたのは、まさにこのためです。明徳とは、力を尽くして徳を提唱することです。慎罰とは、なるべく罰を得ないように努力することです。諸侯の兵を興しながら大罰を得てしまえば、慎罰ではなくなります。王はよく考慮するべきです」
(それもそうか)
そう考えた荘王は夏姫を後宮に入れることをやめにした。
「ならば、私に下され」
子反が言った。
荘王としてはこれを断る必要もないため、彼に与えようとすると、またしても巫臣が声を上げた。
「彼女は不祥の人ですぞ。子蛮(恐らく夏姫の一人目の夫または、兄弟という説もある)は早死し、御叔(夏徴舒の父)は殺されている」
ここで彼が言った殺されているというのは、実際に夏姫が殺したのではなく、夏姫と一緒になったから死んだという意味で、恐らく病死である。
「陳の霊公は弑され(夏姫が原因で夏徴舒に殺された)、夏徴舒は戮され(処刑され)、孔・儀(孔寧と儀行父)は亡命することになり、陳は一度滅ぶことになりました。これ以上不祥な者がいるでしょうか。人生とは難しいものなのです。彼女を得たらいい死に方をしないと考えるのが普通です。天下には多くの美婦人がいます。なぜ彼女でなければならないのですか」
そう言われると流石に恐れた子反は、
「わかった。やめる」
夏姫を娶ることを諦めた。
(やれやれどうするか……)
後宮に入れないまま、置いておくというのも面倒である。できれば、この女を誰かに押し付けないという重いがある荘王は並ぶ臣下たちを見て、一人の男を見た。
「そういえば、襄老は最近、妻を亡くしていたな」
連尹・襄老は細い目で荘王を見て、そのとおりですと答えた。
「よし、汝にやろう」
「命令とあれば、謹んでお受けします」
巫臣が声を上げる前に彼は拝礼をもって受け入れた。すると荘王の目には不思議なものが映った。
夏姫の美しさが増したように見えたのだ。
(ほう、面白いこともあるものだ)
彼女の美しさというものに彼は初めて見たのだ。彼女の美しさは他者があって成立する美しさというものである。
こういう美しさは女性が見せることはあまり無い。何故ならば、女性というものは独立した美しさというものを本来もっているものだからだ。
(誰かがあって初めて完成する美しさというものがあるのだな)
それが彼女を抱く時に一種の快感になるのだろう。だが、それに溺れすぎると死が訪れる。また、彼女の不幸はその他者が碌でもない連中ばかりであったことであったことである。
(どこか君臣の関係に似ているな)
国君という光に近すぎるとその臣下の身もしくはその子孫が遥か西方の地域におけるイカロスの伝説のように……焼かれて滅びてしまうのだ。
人と人の関係は男だろうと女だろうとその本質は変わらないのだろう。
そんなことを考えながら、襄老が夏姫を連れて行くところを眺めているとそれを苦々しく見ている巫臣を見た。
(あやつ、夏姫の美しさを察していたな)
巫臣は氏は屈氏という名門の出だが、元々儀式を司っていた。そのため感覚が人よりも優れている。その感覚が夏姫の美しさを見抜いていたのではないか。
(こやつは……)
だとすれば、不敬なことをしていることになる。
(まあ、良い。不敬なことをした罰ということだ巫臣よ)
荘王はそういうことにした。
夏姫は襄老の家に連れて行かれて数日過ごした。
(何故、あの男は私を抱かないのでしょう?)
男というものは女を抱かねばならないような生き物であると彼女は思っている。そのため自分に手を出さない襄老に疑問を抱いた。
「何故抱かないのですか?」
彼女は直接聞くことにした。
「今のあんたには時間が必要だろ?」
襄老はそう言ってから何も言おうとはしなかった。
「男は女を抱くものではないのですか?」
彼女は尚、そう言うと襄老は鼻で笑った。
「はっ、あんた抱かれたいのか?」
「違います。私が会った男たちは、皆、私を抱いていたので、それで……」
「美女である私を抱かないのは可笑しいというのか?」
「違います」
流石に襄老に言い方に夏姫は怒った。
「なら、あんたは黙って、息子の死でも悲しんでおけ」
「あの子は……」
夏姫は口を噛み締めて言った。
「悲しまれる資格はありません。あの子は母のためと言いながら己の自尊心のために国君を殺し、自ら国君になるという愚かな行為をしました。そして、国君になりながらも民を思いやることをせず、民を苦しめました。あの子は……愚かです」
彼女は息子のことをそう思っていたため、息子の死を聞かされても泣くことはなかった。そんな彼女を襄老は言った。
「どんなに駄目な餓鬼であっても可愛い息子だろ。それが親心というものだ。悲しんでいいし、泣いていいと思うぞ。ここにはあんたと俺しかいない」
襄老の言葉に夏姫はやっと我が子の死に泣いた。同時に襄老の優しさが心に染みた。
夏姫にとって、彼との生活は静かで平和な日々であった。しかし、その生活が長く続かなかったことが彼女にとって大きな不幸であった。




