楚の陳討伐
やっと入れました
十月、楚の荘王が陳を討伐するため軍を出した。名分は陳で起きた夏氏の乱を平定するためである
荘王はまず人を送って陳を偵察させた。斥候が還って報告した。
「陳を攻撃するべきではありません」
「何故そう言えるのだ?」
荘王がその理由を問うと斥候は、
「陳は城壁が高く、濠が深く、蓄えも豊富だからです」
と答えた。すると大夫・寧国が言った。
「陳を討つべきです。陳は小国にも関わらず、蓄えが豊富なのは、税が重く民を搾取しているからでしょう。そのため民は上を怨んでいるはずです。城壁が高く濠が深ければ、民力は疲弊しています。兵を起こして討伐すれば、必ず陳をとることができましょう」
「よし」
荘王は軍を動かした。陳に近づくと、陳人にこう宣言した。
「驚くことはない。少西氏を討つだけである」
少西というのは夏徴舒の祖父の名で、字は子夏という。少西の父は陳の宣公である。
少西の子は御叔で、御叔が夏姫を娶って夏徴舒が産まれた。ここいう「少西氏」は夏徴舒を指す。
(ここまでこの国は抵抗しないのだな)
彼は夏徴舒を討つことを宣言しているが、ここまで抵抗してこないとは思わなかった。
(民を思わぬが故だな)
国君は我が子のように民を愛さねばならない。そういうものであるべきだと彼は信じている。
楚軍は陳都に近づいた。
「徴舒。楚王に頭を下げ、許しを請いなさい。楚王は誇り高い性格と聞いています。許しを乞うてきた者を無下にはしないでしょう」
「母上、それはいけません。きっと楚王も母の身柄を求めるでしょう。また、楚にはあの孔寧と儀行父がいます。あの連中を許している楚になど頭を足りたくありません」
夏徴舒はそう言って、部屋を出た。
「ああ、私たちのそのわがままで死ぬのは、民なのですよ」
彼女の呟きは誰も聞くことはなかった。
「全力をもって、抵抗するものは殺せ、許しを請う者がいれば許せ良いな」
荘王はそう指示を出して、陳都を攻めさせた。
楚の将兵は陳の兵士たちに降伏すれば許すと言って周りながら言った。すると陳の兵士のほとんどは矛を投げ、投稿した。
そのため楚軍は瞬く間に陳都に入り込んだ。夏徴舒は捕らえられ、荘王の前に引き出された。
「何か申すことはあるか?」
「母上だけはどうか許していただきたい」
(母への慈悲を請うか……)
一見美しい母への愛に見える。だが、本当に迷惑を被ったのは民であるはずなのだ。それにも関わらず、身内ばからを愛している。
「連れて行け」
不快であることを隠さず、彼を処刑場へ連れて行くことを命じた。
夏徴舒は処刑され、死体を栗門(城門)に晒された。
荘王は陳を自国の県に編入した。
当時、楚の大夫・申叔時が使者として斉を訪ねており、楚が陳を滅ぼした頃、帰国した。
申叔時は荘王に服命すると、すぐ退出した。その態度に荘王はむっとして人を送って譴責し、こう伝えた。
「夏徴舒は無道であり、その君を弑した。よって私は諸侯(楚の属国)を率いてこれを討伐し、誅殺したのだ。諸侯も県公(県尹)も皆、このことに祝賀しているにも関わらず、汝だけは祝賀する気がないのか」
すると申叔時は拝礼して、
「祝賀しない理由を話すことが許されましょうか?」
と問うと、荘王は許すと言った。
そこで申叔時は言った。
「夏徴舒がその君を殺した罪は大きく、それを討って誅殺したのは誠の義によるものであると申せましょう。しかし人々はこう言っています『ある人が牛を牽いて他人の田を踏み荒らしてしまった。そこで田の主は制裁として牛を奪った。牛を牽いて人の田を荒らすのは確かに罪である。されどそれを理由に牛を奪うのは、罰が重すぎないだろうか』と、諸侯が王に従ったのは罪ある者を討つためでした。しかし王が陳を自国の県にしたのは、富を貪るためです。討伐を名義にしながら諸侯を集め、貪婪によって終了してしえば、天下に号令することができなくなるでしょう」
荘王は喜んだ。
「私にこのような諫言をする者は今までいなかった。占領した地を返せばよいだろうか?」
申叔時は答えた。
「我々小人は『他人の懐から奪った物を取り出して返す』とよく申すものです。奪った物は還すべきです」
荘王はこの進言を受け入れ、陳を復国させた。晋に亡命していた陳の霊公の太子・午が即位した。これを陳の成公という。
孔寧と儀行父も陳に戻された。
後に孔子は荘王を称えた。
「賢人である。千乗の国(諸侯の国。ここでは陳の地)を軽んじ、一言(申叔時の進言)を重んじることができた」
孔子は荘王を高く評価した。
荘王は陳の郷ごとに一人を選んで楚に還り、武功を示すために夏州を置いて、連れて還った陳人を住ませたという。
また、乱の原因となった夏姫も捕えられ、楚に連れていかれた。
やがて時代は大戦への音が聞こえ始めようとしていた。




