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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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郤缺

  紀元前598年


 春、楚の荘王そうおうは晋に破れたとはいえ、それほど被害を出してはいない。そのため鄭へ侵攻し、櫟に至った。


 鄭の子良しりょう(公子・去疾きょしつ)が言った。


「晋も楚も徳を修めず兵を用いて争っている。我々は来た者と結べばいい。晋も楚も信がない。我々に信がなくても良い」


 鄭は楚に服した。


 小国の苦しさはよくわかる。だが、それは国の大事を担う者の責任放棄ではないのではないか。少なくともこの頃から鄭には国の誇りというものを感じられない。


 夏、鄭を下した荘王は辰陵(または「夷陵」)で陳君・夏徴舒かちょうじょ、鄭の襄公じょうこうと会盟した。


 荘王は夏徴舒がどのような男であるが、興味があった。そのためこの会盟に彼を呼んだのであった。


「楚王よ、孔寧こうねい儀行父ぎこうほをこちらに引き渡してもらいたい」


 夏徴舒は会盟が開かれるや否やそう言った。荘王は片眉を上げる。


「何故に?」


「やつらが我が国を乱した賊だからです」


 彼は当たり前ではないかというふうに言った。荘王は不機嫌になった。彼の物言いが気に入らなかったのである。


 夏徴舒には楚に対する敬意や尊重が無い。荘王自信の自尊心は大きい。そのため彼のあり方は気に入らなかった。また、相手の外交の拙さも感じた。あの節操の無い鄭でさえ多少の礼儀は心得ている。


(こやつは自分の国君であるという自覚はあるのか?)


 国君の言葉や一挙一足に気を遣わねばならない。国君とはそれほど責任ある立場であるはずなのだ。それにも関わらず、夏徴舒はその意識が感じられない。


 陳の霊公れいこうという男の質の悪さは誰もが知るところであったが、夏徴舒は霊公が弁えていたことさえできていないではないか。


(この男は国君として何かをしたいとかそう言った理想などは無いのだろうな)


 国には理想というものが必要だ。理想が無ければ国は治められない。


 確かに夏徴舒という男は唯々母である夏姫の幸せだけを願っている普通の青年であった。国君になったのも母を幸せにするためである。


 そこには国をどうしていきたいとかという理想は一切無い。


(この男を主とする民は可哀想だ)


 どんな時でも迷惑を被るのは民である。民は陳の霊公よりも良い政治を行えると思ったから彼の即位に反対しなかったのだ。しかしながらそんな民の気持ちに対し、夏徴舒は背を向けている。


(こういう男を身の程知らずというのだ)


 大いに不快に思いながら会盟を終えた。


孫叔敖そんしゅくごうを呼べ」


 楚に帰国した荘王は伍挙ごきょに言った。


「孫叔敖殿は沂の築城を行っております」


「そうであったな……」


 いらつきながら呟いた。


「宋討伐はどうなさいますか?」


 荘王は会盟に行く前に宋への侵攻を準備するようにも命じていた。


嬰斉えいせいを呼べ」


 公子・嬰斉(字は子重しじゅう荘王の弟で左尹に任命されている)が来ると荘王は言った。


「汝に先鋒を任じる宋で思う存分暴れよ」


「承知しました」


 拝礼を持って、命を受ける子重だが、兄である荘王に苛立ちがあるのを感じた。


「伍挙殿、王は何故、あれほど苛立っておられるのだ?」


「わかりません。会盟から戻ってからあの調子なのです」


「そうか……まあ良い、宋との戦で勝利すれば、機嫌も治るだろう」


 子重は宋へ侵攻し、荘王はは後援として郔(陳・宋・鄭の附近らしい)で待機した。子重は奮闘したものの、対した成果は挙げられなかった。


 そのためか荘王の機嫌は治ることはなく、帰国した。帰国するとそこには孫叔敖がいた。


「早かったな」


「民のおかげです」


 孫叔敖(彼は蔿艾獵いがいりょう)ともいうが、蔿艾獵は兄という説もある)は封人(城郭建築を掌る官)と共に工程の計画を立て、土台となる場所を確認してから作業の日程や必要な資材・労力を計算し、その文の食糧を準備させ、各工程に相応しい人材を厳選。封人が計画内容を司徒(封人の上司)に報告し、役夫が動員されて工事をさせた。


 その結果、計画通りに作業が進み、僅か三十日で滞ることなく城が完成させてみせたのであった。


「何か用があると伺いましたが……」


「国君は民に対し、どうあるべきか?」


 荘王は突然、そう問うた。


「父の如く厳しく、母の如く慈しむことでございます」


 民をまとめるには愛と威を持って行うべきなのだ。


「陳君にそれはあるか?」


「愛は身内のみに注がれ、民に厳しさを強いています。その心に志がございません」


「私は今まで、陳君のような愚かな男を見たことが無い」


 荘王は高位にいる人間に対しては厳しいが民には優しい人である。だからこそ、民へと目を向けない夏徴舒の存在が気に入らなかった。


 国君の職務とは、民という荘王ほどの男でも読みきれない存在と人生をかけて付き合っていくことだと彼は思っている。


 民へと目を向けないということはその職務を放棄しているようなものではないか。


(私はあれを国君とは認めない)


「王がお会いになられた方々は皆、良くも悪くも政治家でございました」


 そんな荘王に対し、苦笑しながら孫叔敖は夏徴舒は政治家では無いと断言した。


 政治家であれば、あのような稚拙さを見せないものだ。


「私は陳を滅ぼす」


 荘王は目を細めそう言った。


「お申せのままに」


 孫叔敖は静かに拝礼した。彼もまた、民を愛する者である。そのため夏徴舒は始末するべき存在であった。











 楚を始め、南方の国々が揺れ動く間、晋は静かであった。晋の成公せいこうが若くして死に、若い晋の景公けいこうが即位したこともあり、晋は国の安定に力を入れていたのである。


 晋の郤缺げきけつは正卿として政務を取り、尽力していた。彼は先ず、北の地の安寧を図り、衆狄(白狄の一種)との講和を望み、狄のことに詳しい荀林父じゅんりんぼを使者として出した。


 衆狄は赤狄から要求される労役に苦しんでいたため、晋に帰順することにした。


 秋、景公が欑函(狄地)に入って狄の主を会見した。


 景公が出発する前に、諸大夫は狄の主を呼び出そうとしていた。相手が蛮族であり、そんな相手などこちらから行かずに招けば良いという傲慢な考え方が彼らにあったのだ。


 郤缺はこれに反対した。


「徳がない者は努力しなければならない。努力を棄てて人に何かを要求することができるだろうか。我々が自ら彼等の地に行くべきだ。『詩経(周頌・賚)』に『文王ぶんおうは勤を成した』とある。文王でさえ努力を怠らなかった。徳の少ない我々ならなおさらではないか」


 本当に辛い体験をしてきた彼だからこその言葉といえよう。


 この会盟の後、郤缺は倒れた。


「父上……」


 郤克げきこくは病に伏せる父に涙を浮かべる。


「郤缺殿」


 士会しかいも郤缺が病に倒れたと聞き、見舞いに来ていた。


「士会殿」


 郤缺は辛そうに身体を起こす。


「無理をなさるな」


「士会殿、私はもう長くはありません。後は頼みます」


 苦しそうな声を出しながら彼は言う。


「私は……幸せものでございます。かつては国に背いた身でありながら正卿の地位にまで至ることができました」


 郤缺は士会の手を取る。


「国は未だ危機を出しておりません。それを救うことができるのは貴方だけだ」


「郤缺殿……」


 何故、この人は私にここまで言ってくれるのだろうか。士会はこの時になってそう思った。


「克よ。私は未だ努力が足りず、かつて国にも背いてもいる反逆者の息子であると罵られることもあろうが、努力せよ。努力することでしかその評価を変えることはできない」


「父上……」


 郤克の目から見ても父が努力が足りないということは決してない。それでもこの偉大な父は努力が足りなかったという。


 どれほど努力すれば、この父に追いつけることができるのだろうか……


「郤缺殿、貴方を名臣であると称えることがあっても反逆者であると罵る者はどこにもございません」


 士会は涙を堪えながら言う。


「士会殿、感謝する」


 郤缺は力なく笑った。この翌日、彼は世を去った。


 郤缺という人は父の反乱に参加したことにより、生き残るためとはいえ野人にまで落ちた人である。その暮らしは私たちが想像できないほど辛く苦しい生活であったはずだ。


 胥臣しょしんに見出されたものの、その時の苦痛は残ったままであった。それでも一度犯した過去は消すことのできないと考え、彼は努力していった。


 その努力は人々に認められていき、遂には位人臣を極めることができた。それがどれだけ後世の人々を勇気づけたことだろうか。


 後世の人々は彼のあり方を知り、励まされることだろう。それでも郤缺は彼らにこう言うだろう。


「私などはまだまだだ。努力し続けなければならない」


 笑みを浮かべ彼はそう語るのだ。


 そんな偉大な男を人々は永遠に称え続けるだろう。


 









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