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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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王季子

 陳で乱が起きたが、周囲の国は特に気にした風ではなかった。正直、陳の霊公れいこうへの同情はどこもなかったのである。


 また、天下はそれよりも如何にして自国を守ることに精一杯という国が多かったというのもあったかもしれない。


 前年、鄭が楚を破ったが報復を恐れて講和した。信義の無さに怒った晋は宋・衛・曹を誘い、鄭を攻撃した。


 鄭はこれに恐れ、諸侯と講和した。それにより、諸侯は兵を還した。


 秋、周の定王ていおうが卿士・王季子おうきし劉康公りゅうこうこうとも言う。劉は食邑で康公は諡。定王の子または同母弟と言われている)を魯に送って聘問させた。


 王季子は魯の卿大夫に礼物を贈った。魯の上卿である季孫行父きそんこうほ仲孫蔑ちゅうそんべつは倹朴であったが、下卿の叔孫僑如しゅんそんきょうじょ叔孫得臣しゅくそんとくしんの子)と大夫の公孫帰父こうそんきほ東門子家とうもんしか襄仲じょうちゅうの子)は奢侈であった。


 王季子が帰国すると、定王は魯の卿大夫で誰が賢人であるかを聞いた。すると王季子はこう答えた。


「季・孟(季孫氏と仲孫氏)は魯で長く存続するでしょうが、叔孫・東門は亡びることになりましょう。たとえ家が亡ばないとしても、その身が禍から逃れることはできないでしょう」


「何故、そう言えるのだ?」


 定王がその理由を聞くと、王季子は答えた。


「臣は臣らしく、君は君らしくなければならない申します。寬(寛大)・粛(厳粛)・宣(公正)・恵(仁愛)とは主君の姿でございます。敬(忠敬)・恪(謹格)・恭(恭順)・倹(倹朴)とは臣下の姿です。寬によって本(民衆)を保ち、粛によって時を過ごし(時期に応じてやるべきことを完遂させるということ)、宣によって教えを施し、恵によって民を和すようにします。寛によって本が保たれれば国は結束し、粛によって時機に応じた動きをすれば功を無駄にせず、宣によって教えを施せば遍く広まり、恵によって民が和となれば豊かになります。本が固まり、功が成り、施しが行きわたり、民が豊かとなれば、民を長く保つことができるため、できぬことはありません」


 彼は先ず、国君のあるべき姿を述べ、


「敬とは君命を受ける姿勢であり、恪とは業を守る姿勢であり、恭とは給事(政務を処理すること)の姿勢であり、倹は用(財)を不足させないための姿勢です。敬によって命を受け入れれば違えることはなく、恪によって業を守れば怠ることなく、恭によって給事すれば死を遠ざけ(刑を受けることがなくなり)、倹によって用を満たすことができれば憂いを遠ざけることができます。つまり命を受けて違わず、業を守っても怠らず、死から離れ、憂を遠ざけることができれば、上下の間に間隙がなくなり、どのような任務にも堪えることができるようになるのでしょう。上にいる者が政務を貫徹し、下にいる者が与えられた任務に堪えることができれば、長世に渡って安泰を保つことができましょう。魯の二子は倹です。用を満たすことができましょう。用が満たされれば一族が守ることができます」


 つまり倹約によって自分の財を満足させることができれば、民から搾取せずに宗族が国人の支持を得ることになる。


「しかし二子は侈(奢侈)でした。侈は困窮した者を憐れむことができません。困窮した者が施しを得ることができなければ、必ず憂いが訪れることになります。しかも人臣でありながら上を顧みることなく、自身を富ませようとしたら、国家はその負担に堪えることができません。これは滅亡の道です」


 定王が


「滅亡はいつだ?」と聞くと、王季子はこう答えた。


「東門(大夫)の位は叔孫(下卿)に劣りますが、叔孫よりも奢侈です。二君に仕えることはないでしょう。叔孫(下卿)の位は季・孟(上卿)に劣りますが、季・孟より奢侈です。三君に仕えることはないでしょう。それぞれが早死すれば家の滅亡は防げる可能性はありますが、そうでなければ害悪が増え、必ず家を滅ぼすことになりましょう」


 深い洞察力を持った人である。



















 魯の公孫帰父が邾を攻めて繹を取った。


 邾の都は繹を国都にしていたが、実は今回魯が占領したのは、国都ではなく同名の邑のようである。


 冬、魯の公孫帰父(子家)が斉に行った。魯が小国の邾を侵したことに斉が介入するのを避けるためである。


 斉は国佐を魯に送って聘問した。追求する気は無いということである。


 楚の荘王そうおうが鄭を攻撃した。鄭が晋と講和したためである。


「報告します。晋軍がこちらに進軍しています」


「そうか……」


 荘王はその報告を聞き、彼は晋と戦うことにした。若敖氏を討伐したことによる自信がそれを決断させたのである。


 一方、晋軍を率いていたのは士会しかいであった。


「どうやら今度は矛を交える気だな」


 彼は前方の楚軍を見て、そう判断した。前、鄭を助けに行った時は好き放題やられたが、今度はそうはいかないと気合を入れた。


 名将・士会と荘王は初めて、矛を合わせた。晋軍と楚軍は潁水北でぶつかった。


 荘王はこの戦は勝てると思っていた。若敖氏討伐での自信がそう思わせたのである。しかし……


「報告します。味方苦戦しております」


「わかっているわ」


 荘王は前方の晋軍にいいようにされている自軍に歯を噛み締め、悔しがった。


「王、どうなさいますか?」


 諸将の一人がそう言うが、荘王は無言のまま前方を見つめる。そして、しばらくして、


「撤退する」


「撤退ですか。まだ、我々は負けたわけでは……」


 諸将は渋るが、荘王は撤退を決め、楚軍を撤退させた。


「楚軍が退いていきます」


 郤克げきこくが指をさしながら言った。


「ああ」


 士会は頷くものの、勝利したという割にはその表情は明るくなかった。


(楚君は自尊心が強いと聞いていたが……)


 彼は楚との戦いで北林の役のような怖さを感じなかったため、楚軍をここで大いに叩こうと思っていた。しかし、楚軍にはそれほどの被害は与えることはできなかった。


(決断力がある。君主の権力が上手いぐらいに反映されやすくなっているようだな)


 晋であれば、引き上げるだけでも大変である。


「楚は侮れない」


 士会はそう呟いた。


一方、荘王も士会のことを意識した。


「士会……晋の士会か……」


 後の大戦において対峙することになる二人の前哨戦は士会に軍配が上がった。






 楚が晋に破れ、鄭から去ると鄭の子家しかが死んだ。鄭の霊公れいこうを殺した男であったため、鄭の人々は子家の一族を攻撃し、子家の棺は破壊され、族人は駆逐された。


 この時に鄭の霊公は幽から霊と諡を改められている。


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