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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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静かに時は経ちて

 紀元前603年


 春、晋の趙盾ちょうとんが軍を出すことを請い、衛の孫免そんめんと共に陳を攻撃した。前年、陳が楚と講和したためである。


「何故に趙盾殿が軍を率いているのだ?」


 士会しかい郤缺げきけつに訪ねた。


「恐らく御子息の初陣のためだ。花を持たそうということだろう」


「趙盾殿の御子息というと確か趙朔ちょうさく殿か」


「そうだ」


 呆れたように郤缺は言った。息子の初陣のために国軍を動かすことを請うたというのが、あまりにも私情的でありすぎるからだ。


「全くあの方は……」


「御子息も大変そうだ」


「趙朔殿のことを知っているのか?」


「ああ、父上とは違い、とても心配りのできる者であった」


「ほう、そうなのか」


 士会は意外そうに言った。趙盾は人の感情に鈍感な人であったからそんな彼の子はそのようではないようだからだ。


「良き息子をもたれたものだ趙盾殿はな……」


 趙一族の他の者は別だがと、郤缺は呟いた。


 秋、赤狄が晋を攻めて懐と邢丘を包囲した。


 晋の成公せいこうが反撃しようとすると、荀林父じゅんりんぼ中行桓子ちゅうこうかんし)が止めた。


「彼らに民を害させ、その悪を充満させれば、簡単に滅ぼすことができます。『周書(康誥)』にある『大国の殷を絶滅させる』とはこのような状況を申しているのです」


 彼らを更に傲慢にしたところで攻めれば良いという進言である。彼は狄とよく付き合っており、彼らのことをよく理解しているための発言である。


 また、晋は楚という驚異が以前としてあるのだ。それを優先させるべきであるという考え方もある。


 それによって傷つく民がいることは何ら変わらないが……


 楚が鄭を攻め、講和して兵を還した。


 ある日、鄭の公子・曼満まんまん王子伯廖おうじはくりょう(王子は恐らく氏。どちらも鄭の大夫)が話しをした。話の内容から、伯廖は曼満が卿の地位を望んでいることを知った。


 後に伯廖が知人にこう言ったと言われている。


「徳がないうえに貪欲なのは、『周易』の『豊之離』の卦だ(家を大きくしても三年はもたないという内容)。三年を越えることはないだろう」


 果たして中一年を経て、曼満は鄭人に殺された。














 紀元前602年


 春、衛の成公せいこう孫良夫そんりょうふを魯に送って盟を結びつつ、併せて晋との会盟について相談した。


 夏、魯の宣公せんこうが斉の恵公けいこうと共に萊を攻めた。これは急に決まったことで宣公は渋々これに従った。


 赤狄が晋を侵し、向陰(周の向邑)の禾を奪った。


 鄭の公子・そうの進言によって、鄭が晋と講和することになった。公子・宋が鄭の襄公の相(補佐役)として会盟に参加する。


 冬、晋の成公、魯の宣公、宋の文公ぶんこう、衛の成公、鄭の襄公、曹の文公ぶんこうが黒壤(黄父。晋地)で会した。これに周の卿士・王叔桓公おうしゅくかんこうも会に参加し、晋を中心とする同盟国に服さない国(楚を中心とする勢力)に対しての方針が相談された。


 晋で成公が即位してから、宣公は晋に朝見したことなく、大夫に聘問させたこともなかった。


 そのため晋の成公が宣公を捕えてしまった。そのため諸侯が黄父で盟を結ぶ中、宣公は結盟に参加することができなかった。


 暫くして魯が晋に賄賂を贈ったため、宣公は釈放された。













 紀元前601年


 荀林父が努力して白狄が晋と講和させた。


 夏、白狄が晋と共に秦を攻めた。


 この戦いでの戦果として秦の諜(間諜)を捕えて絳(晋都)の市で処刑したが、不思議なことに六日後に蘇生したと言われている。


 六月、魯の公子・すい襄仲じょうちゅう)が斉に行った。だが体調がすぐれないため、黄(斉の邑)に至って退き還した。


 数日後、宣公が太廟(周公廟)で祭祀を行っていると同日、公子・遂が垂(斉の邑)で死んだ。


 彼は魯の外交において中々の才を見せたが、己の利益を求めすぎた人物であった。


 その翌日、繹の儀式が行われた。繹とは祭祀の翌日に再び祭りを行うことである。万舞(武舞)が披露されましたが、籥(笛の一種)は除かれている。


 それは公子・遂が死んだことに対する配慮を行ったつもりであったが、元々卿が死んだ時は「繹」を行わないというきまりがあったため、公子・遂が死んだ翌日に開かれた繹は非礼なこととされている。


 因みにこの数日後、宣公の母・敬嬴けいえいも死んでいる。


 群舒が楚に背いたため、楚が舒蓼(群舒の一つ)を攻めて滅ぼした。


 楚の荘王そうおうは滑汭(滑水が曲がる場所)に至って国境を定めると巫臣ふしん(字は子霊)を呉と越に送り、彼らと盟して還った。


 秋、晋の胥克しょこく(下軍の佐)が「蠱疾」にかかっていた。「蠱」には「腹の中の虫」という意味があるため、「蠱疾」は食中毒の可能性がある。


 郤缺は病を理由に胥克を廃し、趙盾の子・趙朔を下軍の佐に任命した。


「謹んでお受けします」


 趙朔は礼儀正しさを見せながら、任命を受け、大夫らにお礼を言って回った。


「律儀な人ですな」


「ええ、私のところにも来ましたよ」


 士会と郤缺はその様子を見ながら言った。


「期待のできる方で良かった」


 彼らはほっと胸をなで下ろした。


 だが、この采配は後に趙氏にも、郤氏にも不幸をもたらすことなる。













十月、魯が小君・敬贏けいえい(魯の宣公せんこうの母)を埋葬した。


 この年は旱だったため(前年も大旱だった)、麻が用意できなかった。そのため棺を縛る縄には葛が使われた。これを葛茀といい、魯ではこの後、葛茀を使うことが慣わしになる。


 また、敬嬴を埋葬する予定の日に雨が降った。


 当時は甲・丙・戊・庚・壬の日を「剛日」、乙・丁・己・辛・癸の日を「柔日」といい、埋葬は柔日に行うというきまりがあった。(この風習は、漢代にはなくなっていたと言われている)。しかし己丑の日(予定されていた日)に雨が降ったため、埋葬を延期することになった。


 翌日、日が出たため敬嬴を埋葬した。


『春秋左氏伝(宣公八年)』は雨のために一日延期したことを礼にかなっていると評価しているが、『春秋穀梁伝(宣公八年)』は埋葬の日が決まったら、雨が降っても中止してはならないと書いている。


 ここで埋葬の日の決め方を簡単に説明する。


 埋葬の日は卜によって選ばれていた。その卜いでは、遠い日から卜っていくようにする。例えばまず翌月の下旬を卜い、相応しい日がなければ中旬を卜い、それでも見つからなければ上旬を卜うという方法である。


 つまりこの方法を使うことで死者を急いで埋葬するつもりはないという孝子の気持ちが表すことができるのである。







 この頃、陳と晋が講和した。


 しかし、その後、楚が陳を討伐すると陳は楚と講和し、楚は兵を還した。陳は節操の無い国となっていたのである。


 そんな時、周の定王ていおうが卿士・単襄公ぜんじょうこう(単は食邑名。襄公は諡号。名はちょう単朝ぜんちょうともいう)を宋に送って聘問させた。その後、楚を聘問するため陳に道を借りようとして、陳に頼んだ。


 当時、周王の権威が失墜していたため、天子の使者といえ、諸侯の道を通る時は正式に許可を求める必要があった。


 朝、東方に火星(商星。二十八宿の心星)が見えた(夏暦十月という意味である)。


 陳の道は雑草が生い茂っているため通行が不便で、候人(賓客の対応をする官)は辺境に現れることはなく、司空(道を管理する官)は道を巡視していなかった。


 湖沢には堤防がなく、河川には橋がなく、野に食糧が放置されたままで穀物を蓄える場所は修築されず、道には列樹(並木)がなく、農地の作物はまばらであった。


 饍宰(膳夫。賓客の食事を担当する者)は食物を提供しようとはせず、司里(里宰。客館を管理する者)は宿の準備をしようとしない。


 国内には寄寓(旅人が住む施設)がなく、県(郊外)には施舍(旅人が休憩する施設)もない。


 しかし陳の民は夏氏の家(陳の大夫の家で美女・夏姫かきが住んでいる)陳の霊公れいこうが良く通っていたため、ここに楼台を建てるとして駆り出されていた。霊公と孔寧こうねい儀行父ぎほうほの三人は南冠(楚国で流行っていた冠)を被り、夏氏の家で遊興して、賓客(単襄公)に会おうともしていなかった。


 この状況に呆れ返った彼は楚に慰問してから帰国すると定王に言った。


「陳君自身が大咎(死)を招かないとしても、その国は必ず亡びるでしょう」


 彼は陳の滅亡を予見した。


 紀元前600年


 定王が魯に聘問するよう要求した。


 夏、魯の仲孫蔑ちゅうそんべつが京師に入って定王を聘問した。


 定王は仲孫蔑には礼があるとして財物を下賜して厚くもてなした


 九月、晋の成公せいこう、宋の文公ぶんこう、衛の成公せいこう、鄭の襄公じょうこう、曹の文公ぶんこうが扈(鄭地)で会した。晋を中心とする連合国に従わない勢力を討伐するためである。

 

 この時、陳も読んでいたが陳は楚を恐れて会に参加しなかった。そのため晋の荀林父じゅんりんぼが諸侯の軍を率いて陳を討伐した。


 だが、彼らは陳を完全に屈せすることなく退却した。晋の成公が世を去ったのである。


 在位も七年と短く、若い死であった。そして、跡を継いだのはこれまた若い成公の子である獳(または「據」「孺」)が即位した。これを晋の景公けいこうという。


 晋は再建途中であった。その途中だけに痛い死であった。


 十月、衛にも訃報があった。衛の成公せいこうが死んだのである。彼は晋の文公ぶんこうに嫌われたため、外交面で大いに苦労した。嫌われないことに越したことはないということだろう。


 楚が鄭を攻撃した。厲での会盟が原因である。


 晋の郤缺げきけつが軍を率いて鄭を援けに向かった。荀林父は先君が死んだばかりと主張したが、彼はだからこそ、諸侯をまとめる必要があるとして鄭を援けた。そのため鄭の襄公は柳棼(鄭地)で楚軍を破ることに成功した。


 鄭の国人は皆喜んだ。あの強い楚に勝ったのである。しかし、子良しりょう(公子・去疾きょしつ)だけは憂いて言った。


「これは国の災いになるだろう。私が死ぬ日は近い」


 彼は今後の国の外交が難しくなると思いため息をついた。




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