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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第一章 周王朝の失墜
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華父督

 紀元前711年


 春、魯の群臣にいん羽父うほによって隠公いんこうの死が発表された。魯の群臣たちはその事で動揺している中、羽父は


「公は殺したのは寪氏いしの一族である」


 と群臣に伝えた。まるで己が魯の宰相のように振る舞う羽父を見て、隠公を殺したのは羽父の手によるものではないかと思う者も群臣の間にいたが、彼らは羽父の言う通り、寪氏の一族の処刑を主張し、無辜の者を含め殺した。


 そのまま羽父は允を位に着かせた。これを桓公かんこうと言う。


 突然、魯の君主が変わったので諸国は魯の動向を見つめる中、羽父は三月、桓公の地盤を固めるため彼は鄭に向かった。鄭が周公の祭祀を行いたいということで持ち掛けた祊と許を交換する件について会談を行いたいと鄭で言った。


 鄭の荘公そうこうはこれに同意、垂で魯の桓公と会見した。そこで桓公は正式に交換に同意した。ここでただ同意するのではあまり旨みがないと思った羽父は祊のほかに玉璧をこの交換に追加した。鄭はこれに同意した。


 四月、鄭の荘公と魯の桓公は越の地で会盟を行い正式に交換をした。この盟文にて、盟を守れないのであれば国を享受できないと書いた。


 この会盟の中で正式的に鄭が魯に対し、隠公の死について言及しなかったのは大きい。なぜなら鄭は今や諸侯の中での盟主に等しく、その鄭が桓公の即位など認めないと言えば諸侯たちは魯を攻めるかもしれない。だが鄭が認めたことでほかの諸侯は何も言うことができない。これが羽父の目的であった。


 紀元前710年


 ある日、宋の大宰・華父督かほとくは宮中に向かう途中の路上である車とすれ違った。


 その時、華父督はその車に乗っている者に驚いた。なぜなら今まで見たことも無い絶世の美人が乗っていたのである。


(何と美しく色っぽい女だ。)


 華父督は女好きである。そのため車の女性を自分の物にしたくなった。


「あの車に乗っている女は誰の女か」


 華父督は配下に問いかけた。


「あの方は司馬様の奥方様でございます」


孔父こうほの妻だと」


 華父督は驚いたと同時に強い憎悪を顕にした。彼は今まで孔父の事を馬鹿にしており、何時も孔父のやり方を馬鹿にしていた。そのように馬鹿にしていた男にあのような美女が奥方にいる。そのことが彼は許せなかった。そのため彼は


(あの女を自分の物にしてやる。)


 しかし、この男は己の欲望を叶えるだけではなく、自分の行うことに正当性と利益を並行に考えることのできる男である。彼は女を得ると同時に孔父と彼を寵愛する宋の殤公しょうこうも排除し、己の権力を高めることにした。


 正月、孔父の館を華父督は配下に襲わせ、孔父とその一族を殺害するとその妻を己の物にした。


 孔父を殺した事は直ぐ様、殤公に伝えられた。これを知った殤公は案の定激怒し臣下に華父督を捕らえるよう命じた。


 だが華父督の方が動きは早い、彼は兵を宮殿に向け、そのまま侵入しあっさりと殤公を殺害した。この時抵抗した大夫は少なかった。


 なぜなら事前に華父督が手を回していたことと何より、ここ数年で連敗続きであるのにも関わらず度重なる戦を行い、国力を低下させていった殤公とその殤公に従うだけの孔父は大夫たちから憎まれていた。


 そんな彼らの感情を華父督は利用したのである。大夫たちには、司馬が政治を行っていたためこのような事態になったとし、彼は自分の行為を正当化したのである。それにより、宋の群臣は華父督に対し何もしなかった。


 このように国君の暗殺を行いながらも政権を固めた華父督の次なる問題は、諸侯たちにどうこの事態を認めさせるかであるが、そこは流石と言うべきか華父督に抜け目はない。


 三月、鄭の荘公、斉の僖公きこう、魯の桓公、陳の桓公かんこうは宋の乱を治めるため宋の稷という地で会見を行った。そこで華父督は諸侯に賄賂を渡した。


 しかし、賄賂だけでは些か弱いため華父督は鄭にいる公子・ひょうを即位させることを鄭に伝えた。


 鄭からすれば自国にいた公子・馮が宋の国君になれば外交において、鄭の勢力に加えることができるため好都合であるため、鄭は華父督の行いを認めた。ほかの諸侯たちにおいては斉の僖公は波風を立てさせたくない人であるため文句は言わない。陳は賄賂を喜んで受け入れ、魯は羽父が賄賂を受け取ることに同意したため魯の桓公も口は出さない。


 こうして、諸侯に認められるという形で宋での華父督の政権は認められ、公子・馮は即位した。これを荘公そうこうと言う。


 四月、会見を終えた魯の桓公は宋から戻ってきた。さて、宋から渡された賄賂は郜の大鼎である。


 数日後、魯の桓公はこの大鼎を大廟に奉納しようとした。


 これを臧僖伯ぞうきはくの子で魯の大夫・臧孫達ぞうそんたつ(臧哀伯とも言う)が桓公を諫めてこう言った。


「人の君となる方は徳を顕揚して誤りを塞ぐことを忘れずに群臣らを監督しても、まだ足りないことを恐れるものです。そのためにその徳を子孫に示すことができるのです。また、清廟(太廟)は茅を用い、大路は草蓆で車の席を作り、羹(汁物)は味付けせず、主食には精米を使わないことようにすることで、倹約を明らかにするものです。こん(上着のこと)、べん(冠のこと)、ふつ(ひざかけのこと)、ちょう(玉のこと)、たい(かわおびのこと)、しょう(はかまのこと)、ひょく(すねあてのこと)、せき(くつのこと)、こう(櫛みたいな物)、たん(玉を付ける紐み見たいな物)、こう(結び紐のこと)、えんは身分の上下によって異なることで制度を明らかにするものです。藻率そうすい(水草模様の布)、鞞鞛へいほう(刀の鞘飾り),鞶厲はんれい(革帯の飾り)、ゆう(旗の飾り)、えい(馬の飾り)は階級によって変えることで数の制度を明らかにします。火、龍、模様やふつ模様は君の文飾を明らかにします。五色(青・黄・赤・白・黒)は物を明らかにし、よう(馬に着ける鈴)、らん(轡に着ける鈴)、(車の鈴)、れい(旗に着ける鈴)は音を明らかにします。三辰(日・月・星)の旗は明を表すもの。徳とは倹にして度があり、事象の増減には一定の数の基準があります。それらは文と物によって記され、音と明によって発揚されます。これらを用いることで群臣に対して徳の倹や度を明確にできるのです。そこで群臣は慎重になり、自らを戒め、法を守るようになります。しかし君は徳を滅ぼして誤りを立て、賄賂の器物を大廟に奉納し、群臣に示しました。群臣はこれにならうようになります。国の敗亡は臣たる者の歪みから始まります。臣が徳を失うのは、寵愛を受け、賄賂が横行するところから始まるのです。この度、郜鼎が太廟に置かれましたが、これ以上に賄賂を得たことが明らかになることがあるのでしょうか。武王ぶおうは商に勝って九鼎を雒邑に遷しましたが、この時でも義士(伯夷はくい叔斉しゅくせいのこと)が批難しました。今回のように悪によって乱を興した者(ここでは華父督のことであるが羽父のことも遠回しに避難している)の賄賂を大廟に置いたらどうなるでしょう。」


 しかし、桓公は諫言を聞かなかった。


 これを聞いた周の内史が言いました.


「臧孫達の子孫は魯で長く栄えるだろう。君が誤った時、徳によって諫めることを忘れなかった。」

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