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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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両頭の蛇

 紀元前604年


 正月、魯の宣公せんこうが斉に行った。


 その時、斉の高固こうこ叔姫しゅくき(魯女)を自分の妻にするため、斉の恵公けいこうに進言して宣公を国内に留めさせた。


 宣公は高固へ怒りを覚えつつも、斉は自分の即位を助けてくれた国である。その国に悪意をもたれるようなことはするべきではないと判断し、婚姻を許可した。


 夏、宣公が斉から還ることができた。


 されど国内では国君が脅迫に屈して隣国の臣の婚姻に同意するのは誤りと非難された。


 九月、高固が叔姫を迎えに魯に来た。卿大夫が他国から妻を娶る時は国境を越えて迎えに行くことが礼とされていたためである。


 冬、高固と子叔姫が魯に来た。因みに子叔姫の「子」は既婚を表している。


 二人が魯に来たのは「反馬」のためである。


「反馬」というのは婚礼の儀式の一つで、当時の結婚では、士人の新婦は夫の家の馬と車を使って嫁ぎに行くが、卿大夫の新婦は実家の馬と車を使った。


 結婚後、車は夫の家に留められ、妻としてふさわしくないと判断するとその車を使って実家に帰らせ、馬を三カ月後に妻の家に返すと夫が「妻と別れることはない」「実家に帰らせることはない」という意志を妻の家に示すことになる。


 叔孫得臣しゅくそんとくしんがこの頃、死んだ。












 楚が鄭と陳に侵攻し、陳とは講和した。だが、鄭は楚の侵攻を受けたため、晋に付き、晋は荀林父じゅんりんぼに兵を率いさせて鄭を救け、陳を攻撃した。


 そんな中、


「そろそろ、わしも隠居させてもらいたいのじゃがのう」


 楚の令尹・虞丘子ぐきゅうしは書簡を見ながら呟いた。彼は楚の荘王に書簡で引退を願っていた。


 内容は以下のとおりである。


「王に奉じて法を行っていけば、栄誉を得ることができますが、能力が少なく行いが薄ければ(行いに徳がともなっていなければ)、上位を望むことはできませぬ。仁と智で名を知られることがなければ、顕貴も栄華も望むことはできず、才無ければ、その地位に留まってはものでございます。わしは令尹を勤めまして大して国の政治が良くならず、獄訟は止まず、能力のある士人を抜擢することもできておりませぬ。また、淫禍(姦悪)を除くこともできておりません。久しく高位にいながら、賢人が進む道を塞ぎ、いたずらに俸禄を受けとり、貪欲に限りがないわしの罪というのは、法官によって審理させるべきでしょう。私は秘かに国内の俊才を探しており、郷下に住む士・孫叔敖そんしゅくごうを見つけております。彼はやせ細って弱弱しい外貌をしておりますが、その能力は多彩でしかも強欲ではございません。国君が彼を登用して国政を任せれば、国はうまく治まり、士民が帰心することでしょう」


 それに対して荘王の返答はこうである。


「汝が私を助けたおかげで、楚は中国の長となり、辺境にまで政令を行き届かせるようになり、ついには諸侯に霸を称えることができたようになった。汝がいなくなったらどうすればいいのだ」


 荘王はこう言っているが、実のところ、孫叔敖という人物の才能を信じきれてないのである。


(やれやれ直接話しますかのう)


 虞丘子は荘王の元に出向いた。


「久しく禄位に留まることを貪と申し、賢能の者を進めないことを誣(主君を騙すこと)と申し、官位を他者に譲らないことを不廉と申しまする。この三者を避けることができないのは、不忠と申しまする。人臣でありながら不忠であっては王は何をもって忠とするのでしょうかな。わしは官位を退きます」


 直接言われ、荘王は遂に折れた。


「そこまで言うほど孫叔敖は有能なのか?」


「取り敢えずは招いてくだされ、そうすればわかりまする」


「わかった」











「王よりの命により、孫叔敖殿。あなたを迎えに参った」


 兵たちが孫叔敖の家にやって来て言った。


「まあ」


 孫叔敖の母を始め、家族は大いに喜んだ。そんな中、孫叔敖は特に嬉しがることはなく、内心では複雑ではあったものの、これを受け入れた。


「参ります」


「では、こちらへ」


 兵が車へ案内する。その様子を周りの住民が見ていた。


「まあ、どうなさったのかしら」


「なんでも孫叔敖殿が令尹になられるとか」


「それは何と嬉しいことでしょう。あの方なら良い政治を行うわ」


 孫叔敖は有名であった。その理由は幼少の頃の逸話が関係している。


 幼少の頃、孫叔敖が外に遊びに出て、暫くして家に帰ってきたが、憂鬱そうな顔をしており、食事も録にしなかった。そのため母が理由を聞くと、孫叔敖は泣いて答えた。


「今日、私は両頭の蛇を見ました。私はもうすぐ死ぬはずです」


 彼はわんわんと泣いた。そんな彼を見ながら母は彼に聞いた。


「蛇はどこにいるのですか?」


「両頭の蛇を見た者は死ぬと言われています。私は他の人が両頭の蛇に遭遇するのではと思い、殺して埋めました」


 すると母はにこりと笑い、彼を撫でながら言った。


「心配することはないのですよ。あなたは死ぬことはありません。『隠徳ある者には、天、福を持って報いる』といいます。あなたは人のために良いことをしたのです。きっと天はこれに報いてくれるでしょう」


 この話を聞いた人々は、孫叔敖なら将来、仁政を行うことができるだろうと噂し合った。そのため彼は政治において信頼を置かれ、人気があった。


 彼が楚の都に着いて令尹に任命されると、楚の吏民が皆、祝賀に来た。しかしそこに虞丘子が粗末な服と白冠を身につけて、遅れて弔いに来た。


「よう来なさった」


 にこにこしている虞丘子に対し、孫叔敖は衣冠を正して問うた。


「王は私の不肖(能力がないこと)を知らず、私に吏民の垢(令尹のことで謙遜した言い方)を委ねました。そのため人々は皆、こうして祝賀に来て下さりましたが、あなただけは遅れて弔問に来ました。何か教えをいただけると思いました」


 虞丘子が言った。


「身分が貴くなり人に対して驕る者からは、民が去っていくもの。官位が高くなり権力を専断しようとする者は主君から憎まれる。俸禄が厚くなっても満足しようとしない者は、近くに災難が潜んでおる」


 孫叔敖が再拝して言った。


「謹んで命を受け入れます。これ以上の教えもお聞かせ願いたい」


 虞丘子は笑みを深める。


「地位が高くなってもますますへりくだること、官職が大きくなればなるほど細心になること、俸禄が厚くなっても慎重であることを心がけ、利益を求めないこと、汝はこの三者を守りなされ、それができれば、楚を治めるには充分でしょうな」


「素晴らしいお言葉です。謹んで記憶します」


 彼は深々と頭を下げ、周りの者も二人に感嘆した。しかしながら翌日の孫叔敖の行動に驚くことになる。


 なんと虞丘子の家人が法を犯したため、直ぐ様、逮捕して処刑したのである。


 流石にこれは虞丘子は怒るだろうと多くの者は囁き合ったが、孫叔敖は平然としていた。


 そんな中、虞丘子は宮中に出向き、荘王に面会を求めた。荘王は孫叔敖の処罰を求めるのかと思い、彼に会うと彼は笑みを浮かべていた。


「私が言った通り、孫叔敖は国政を任せるに足る人材ですぞ。国を奉じ、私党を作らず、刑戮を行って曲げることがないのですから、彼は公平な人物と言うことができましょうや」


 荘王は


「彼は夫子(あなた。相手に尊敬をこめた呼称)が与えたのだ」


 と言って虞丘子に感謝し、以後彼を国老と呼び、采地三百戸を与えた。その後、荘王は孫叔敖に会って、虞丘子の言葉を伝えた。


「虞丘子は汝を大いに讃えていた」


「左様ですか」


 褒められたにも関わらず、孫叔敖はにこりともしない。


(愛想のないやつだ)


 彼に苦笑しながら荘王は言った。


「国を政治は任せた。より良い政治を行う上で必要なことがあれば、どんどん言ってくれ、改善するところもな」


「存じております。それでは仕事がございますので」


 彼は拝礼してから荘王の元から離れた。


「愛想のない男だ」


 彼は再び苦笑した。


 一方、孫叔敖は静かに廊下を歩いていた。


(父上、私は王に……令尹に任命されました)


 彼は空を見上げる。


(私は……多くの国民を守る立場になりました)


 彼は拳を固く握る。


(あの方は民にとって必要な方です。私の親不孝お許しくださいませ)


 彼は内に秘めし、両頭の蛇を殺した。


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