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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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蘭の花が告げる天命

 秋、赤狄が斉を侵した。


 また、この当時、宋は曹に攻められていた。


 宋の文公ぶんこうが同母弟・昭公しょうこうの子を殺し、武氏と穆氏を放逐したことがあった。


 武氏と穆氏は、曹に逃れたのだが、彼らは曹に協力を求めて宋を攻撃させたのである。


 秋、宋は反撃に出て曹を包囲した。


 十月、鄭の穆公ぼくこうが死んだ。


 穆公には実は変わった出生の持ち主でもある。


 穆公の父・文公ぶんこうには燕姞えんきつという賤妾がいた。


 ある日、燕姞は夢で天(神霊)から蘭の花を与えられた。天はこう言った。


「余は汝の祖・伯鯈(南燕の祖。姞姓)である。らんを汝の子にしよう。蘭は国香(国内で匹敵するものがない香)をもつ。人々は蘭を愛するように汝の子を愛すであろうぞ」


 暫くして文公が後宮で燕姞を見つけ、燕姞を気に入ると蘭を与えて御幸した。


 やがて、妊娠した燕姞が文公に言った。


「妾(私)は不才ですが、幸い子ができました。もし誰かに疑われるようなことがあれば、戴きました蘭を証拠にさせてください」


 彼女は賤妾の出身のため、文公の子ではないと疑う者がいるかもしれない。その時は御幸する前にいただいた蘭を証拠にして欲しい。つまり蘭が咲いている時から妊娠して、生まれるまでの月日が計算できるはずだからという意味か。


 または私は天の声に応じて子ができました。御行の前に蘭をいただいたことがその証拠ですという意味がある。


 文公は同意し、産まれた子に蘭と名付けた。これが穆公である。


 さて、ここで文公はという人の他の子たちのことを話す。


 彼は鄭子(子儀しぎ。文公の叔父にあたる)の妃である陳嬀と姦通して子華しか子臧しぞうを産んだ。


 されど文公は子華を南里で殺し、子臧は陳と宋の間で殺した。


 文公は江からも妃を娶って公子・が産まれたが、公子・士は楚に朝見した時、楚人に酖毒を飲まされ、葉(楚地)に至って死んでいる。楚は江を滅ぼしたため、江女が産んだ公子を嫌ったと言われている。


 文公は蘇からも妃を娶り、子瑕しかと子兪彌が産まれました。しかし子兪彌は早逝し、子瑕は文公と大夫・洩駕せつがに嫌われていたため楚に奔り、後に楚と共に鄭を攻めて殺された。


 こうして見ると文公は自分の息子である公子たちを殺していることがわかる。


 更に残った公子たちも国から追放した。公子・蘭は晋に奔った。後に晋の文公ぶんこうが鄭を討伐すると、公子・蘭もこれに従った。


 その後、鄭は晋に講和を求めると晋は公子・蘭を太子に立てることを要求し、これが鄭の大夫らが賛同したことで穆公は太子となり、国君となったのである。


 この年、穆公は病に倒れるとこう言った。


「蘭が死んだら私も死ぬだろう。私は蘭によって生きているのだ」


 果たして、蘭が刈られると穆公は死んでしまったという。


 因みにこの時、蘭が刈られた原因について三つの説がある。


 一つは蘭の季節が過ぎ、花も実も成ったため、ある人が刈り取ったことで穆公が死んでしまったという説。


 二つ目は穆公自身が自分の生死と蘭(天命)には関係がないことを試そうとして、蘭を刈らせたところ死んでしまったという説。


 三つ目は誰かが誤って蘭を刈ってしまったため、穆公が死んでしまったという説。


 いずれにしても、蘭の故事は穆公の即位が天命によるものだったということを物語っている。


 鄭の穆公は天命により、即位したが、正直、昔ならともかく今は晋と楚という強国に挟まれ、その間で苦しんでいる国である。そんな国に即位したことは決して嬉しくなかったはずである。


 彼の父・文公も子沢山であったが、穆公も子沢山である。しかも文公よりも多く、その子供たちの多種多様さは中々無い。


 ある者は国君になり、ある者は宰相になり、ある者は猛将となり、ある者は策略家になり、ある者は野心家になり、稀代の美女までいる。


 このように多種多様が故に対立し、互いに殺し合うこともあったが、彼の子供たちやその子孫が後の鄭を担っていくことを思えば、やはり彼の即位は必要なものであったかもしれない。


 そんな穆公の死後、継いだのは息子の鄭の霊公れいこうである。


 彼は年内中に穆公が埋葬した。当時の諸侯は死んで五カ月後に埋葬することになっていたため、礼から外れたことであった。この時点で彼が碌でもない男であることがわかる。


 そのため早速、彼の子供同士の殺し合いが始まるわけだが、穆公はそれを知ることなく死ねたことは幸福であったかもしれない。



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