鼎の軽重を問う
紀元前606年
正月、魯で郊牛の口に傷があったため、他の牛を卜って選んだ。
郊牛とは郊祭で犠牲に使う牛のことである。郊祭は郊外で収穫を祈るために天を祀る儀式のことで、犠牲に使われる牛は卜によって選ばれる。
卜の前は『牛』と言うが、卜で選ばれたら『牲』と呼ぶ。
こうして新たに牲が選ばれたが、その牛も死んでしまった。
そのため魯はこの年、郊祭をせず、三望の儀式だけを行った。「三望」とは東海・泰山・淮水の祭りである。
本来、三望は郊祭の一環とされているため、郊祭をしないのにも関わらず、三望だけを行ったのは非礼とされている。これは魯の僖公の時も同じことをやっている。
晋で新たに即位した晋の成公は積極的に諸侯の盟主としての立場を取り戻したいと考えていた。
そのため、昨年、背いた鄭を軍に攻めさせた。軍は郔(鄭北)に至る。
鄭は混乱していたはずの晋がこれほど早く動くとは思ってはおらず、晋と講和することにした。晋側は士会を派遣し、鄭と盟を結んだ。
実はこの時、楚が鄭を救援するため、軍を動かしていた。
「楚が来る前に鄭を降せて良かったですね」
郤克が士会にそう言った。
「そうだな……」
(だが、やはり楚の動きが速い)
彼は間者からの報告で楚軍の動きの速さに舌を巻いていた。
(明らかに国に問題のある軍の動かし方ではない。楚君は芝居をしていたという噂は本当だったのか)
楚の荘王は酒ばかり飲み、政治を顧みない君主と言われていた。しかし、以前の北林の役での楚軍の強さに警戒心を抱いた諸国らは楚を調べた。すると荘王は三年経つと佞臣らを斬り、名臣を多く登用したという情報を得た。
(楚は以前の楚では無いということだ)
しかも荘王は三年芝居したように何をするかわからない。
「取り敢えずは警戒をしておこう」
「わかりました」
(さあ、どう来る)
士会は楚軍襲来に備えた。
一方、荘王は明らかに不機嫌な表情を浮かべていた。
「鄭があれほど早く晋に屈するとは……」
伍挙がそう呟く。
「全く、信用ならない国ですな鄭は、王よ直ぐに鄭にいる晋軍を蹴散らし、鄭の罪を問いましょう」
子越が威勢良く言った。
だが、荘王は無言であった。
不機嫌な上に無言な彼に皆、恐ろしくもあり、不気味でもあった。士会が荘王は何をするかわからないと言っていたが、それは楚の群臣たちにとっても同じなのである。
「子越よ。晋の将は誰だ?」
すると荘王が子越にそう問うた。
「え、それは……」
もういいと言うかの如く、荘王は顔を伍挙に向ける。
「誰だ?」
「士会という人物です」
彼が士会の名を言うが、それ以上のことは言わなかった。そのため次に荘王は蔿賈を見た。
「どうだ?」
「名将です。北林の役にも参加しており、撤退が上手い印象を受けました」
「なるほど……勝てるか?」
蔿賈はしばらく黙り込み、言った。
「王が本気で勝とうとなさるのであれば、勝てます」
彼の言葉に荘王は片眉を上げる。彼は晋と戦う気はなかった。何故ならば、晋側がしっかりとした守りを固めており、これと戦っても被害が出て、勝っても小さな勝利に違いないと思ったからである。
それを蔿賈は察しており、そう言ったのである。しかし、それはまるで内心を見透かされているようで荘王は気に入らなかった。
「私としては今は退くのが宜しいかと思います」
「撤退すると言うのか」
「やめよ」
子越は蔿賈に噛み付く、それを荘王が止める。
(子越は猛将だが、思慮に欠ける。伍挙は才はあるものの、それを用いる物足りなさを感じる。蔿賈はこの中で才気が絶大であるものの、戦術に特化し過ぎている)
彼はそう評価しつつも、言った。
「伊川に軍を動かす」
荘王がそう言うと、諸将は驚く。何故なら伊川周辺には陸渾の戎ぐらいしかいないのである。
「陸渾の戎を討つということですか?」
「そうだ」
陸渾の戎は姓は允で、彼らはかつて秦と晋の間に住んでいた。
その辺りの地名を「陸渾」といい、秦と晋がその陸渾の戎を伊川に遷した。その後、伊川周辺の地も陸渾に改名されている。
そんな彼らを討ってもそれほどの意味は無いように思われていたが、荘王は陸渾の戎を討伐した。
その後、荘王は軍を雒(洛水)に至らせ、周の国境で閲兵を行わせた。
「何故、このようなところで閲兵を行うのだ」
諸将は疑問に覚えながらも、行った。そんな中、荘王はじっと何処かを見据えていた。そして、やがてある一団がやって来た。
「王よ」
「心配いらん。あれは周の連中だ」
「周ですか?」
「そうだ」
そう言ったきり、荘王は何も答えなかった。
楚軍は一見、意味の無い行動をしているように見えたが、荘王の狙いは周にあった。
周は楚が陸渾の戎を討伐し、更に雒(洛水)にまで来て、国境沿いで閲兵を行った。まるでこちらを威圧しているように周側はそう受け取った。
楚の北上を恐れた周の定王は、大夫らを送って荘王を慰労させることにした。かつて蛮族と罵っていた相手にこのような態度見せなければならないほど周の力は衰えていた。
されど周は天下の長であったということは無くなってはいない。それに荘王は目をつけたのである。
荘王はやって来た周の大夫たちに言った。
「汝らに問いたいことがある」
「何でしょうか?」
恐る恐る、彼らは荘王の問いを聞いた。
「我、鼎の軽重を問う」
彼は周の大夫らに周の九鼎の大小・軽重を問うた。周の大夫らは驚き、唖然とした。
「鼎』とは、この時代、煮炊きに用いられた三本足の青銅器のことで、九鼎とは九州(中国全土のこと)を象徴して作られた九つの鼎のことを差す。それを擁する者が天子の資格を持つとされていた。代物である。
荘王が言った。『鼎の軽重を問う』というのは九鼎の移動が可能かどうかを確認することであり、天子の地位が周から楚に移ることを暗示している。
ならば、運べないと言えば良いのではないかと思われるが、話しはそう簡単にはいかない。
実は彼らは九鼎を見たことがないのだ。九鼎は神聖な物だから大切に保管せねばならない。そのため都の宝物庫に人に見られることなく保管されていたのである。そのため彼らは正確な大きさがわからない。
されどここででたらめな大きさを言うわけにはいかない。もし言えば、お前たちでは話しにならんと荘王は自らの目で確かめると称して都に踏み込むかもしれないのだ。
彼らは冷や汗をかき、無言のまま立ち尽くす。そんな中、進み出た男がいた。その男の名は王孫満。かつて秦の穆公の敗北を予見した人物である。
「何ゆえに鼎の軽重を問われるのでしょうか?」
王孫満はそう言ってから続けて荘王に言った。
「鼎の軽重は徳の盛衰に関わり、鼎そのものの大小・軽重ではありません。昔、夏王朝に徳を遠方の物で描いて、図にすることで明らかにし、九牧(九州の長官)に金(銅)を献上させて、鼎を鋳て各地の物をその上に描きました。百物を鼎に図示し、民に神や姦(怪物)を教えたため、民が川沢や山林に入っても魑魅魍魎のような悪い物に遭うことがなくなり、上下が協調して天の恵みを得ることができるようになりました。しかるに桀王が徳を失ったため鼎は商に遷されました。その後、六百年が経ち、商の紂王も暴虐だったため、鼎は周に遷されました。徳が美しく明るければ、鼎がたとえ小さくとも、重くて動かせません。逆に民の主が姦悪で徳を失っているのであれば、いくら鼎が大きくても軽くなります。天祚(天の福)とは明徳の者に与えられるものであり、それを変えることはできません。成王が鼎を郟鄏(東周の都・洛邑)に定めた時、世代を卜うと三十世と出ました。また、年を卜えば、七百年と出ました。これぞ天が定めた命に他なりません。確かに周の徳はいかに衰えようとも天命はまだ改まっていません。未だ鼎の軽重を問うことはできません」
「天命、未だ定まらずか……」
にやりと笑い、荘王は言った。
「今はそういうことにしておこう」
荘王は兵を還した。
彼は鼎の軽重を本気で問うたわけではない。彼からすれば、もはや何の力も無い周など怖くもなんともないのだ。
彼は鼎の軽重を問うたという事実が欲しかったのである。それだけ楚は力を持ったと天下に示すこと、そして、今回、楚が周にここまで接近して諸侯は誰一人助けに来なかった。
その事実は小さいようで実は大きい。覇者とは本来、楚という驚異に対し、周に代わって諸侯をまとめ、天下を主催するものなのだ。つまり本来であれば、覇者は周を助けねばならない。しかし、今の覇者であるはずの晋は周を助けなかった。
形だけとはいえ、晋は覇者という職務を放棄したことになる。詭弁と罵ることもできる。されど一度そういう事実があったということは揺るがない。
「後は、力だ。力による勝利が必要だ」
かつて晋が楚に城濮の戦いで勝利した時のような勝利を持って、楚が天下における覇者であることの証明となるだろう。
「次は鄭だ」
夏、楚が鄭を攻めた。鄭が晋と講和際に攻め込まずにいたため、侵攻を行ったのである。
楚は周に鼎の軽重を問うたことで、大きくその力を示していた。この時、晋は鄭から引き上げていたところであり、楚に対し、何もできなかった。
楚の荘王はそれを踏まえて動いたのである。晋に油断があったのは否めないが、荘王の行動の察しきれないほど荘王は上手く動いていたと言っていいだろう。
彼は豪快で過激なように見えるがその実、慎重かつ冷静に動いている。
彼は天下を客観的に見ることができ、戦略を立てることができる人物であった。かつては斉の管仲や晋の文公、狐偃、先軫がそういう目を持っていた。されどこの時代、そういう目を持つことができる者はいない。
「天命は我が手にある」
彼は天に向かって手を伸ばし、掴んだ。




