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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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趙盾

 家に趙盾ちょうとんはボロボロの状態で戻ってきた。


「何があったのですか?」


 趙穿ちょうせんが驚きながら駆け寄る。


「主公が私を殺そうとしている」


「だから言ったではありませんか。あれほど警戒してくださいと」


「そうだな」


 疲れたように趙盾は頷く。心も身体も限界だったのだ。


「もはや、主公との関係は修復できません」


「そうだな」


 趙穿は彼に近づき、耳打ちした。


「主公を弑すべきです」


 趙盾は驚き、彼の顔を見る。彼の顔は本気であった。


「ならぬ、主公を殺してはならぬぞ」


「何故です。貴方は主公に恨まれている。恨まれている以上、この国には居られませんぞ」


「そうだ。その通りだ」


 趙盾は頷く。


「主公は私を恨んでいる。だが、私以外の者を恨んではいない。私がこの国から去れば良いのだ」


「亡命する必要などありません」


「私がいなくなれば全て解決できるのだ・良いな。お前たちは何もするな。私はこの国を去る」


 そう言って彼は国を出る準備を行い、出発した。しかしながら彼は甘いとしか言い様がない。あの霊公が趙盾だけを許すわけが無いのだ。


(我が友、胥甲しょこうを追放したのだ。やがて害は趙一門全体に及ぶに決まっている)


「人を集めよ。暗君を弑す」


 彼は部下に命じて人を集めた。















 趙盾を殺せなかった霊公はわなわなと拳を震わせていた。


「なんとしても趙盾を殺せ、良いな」


 彼は母の使っていた者たちも使って、趙盾を殺そうと図った。しかし、既に趙盾は国境に向かって逃げており、見つけることさえできていなかった。


(おのれ、おのれ、趙盾……)


 何度殺したいと思い、夢見たか。だが、あともう一歩という所で取り逃がしてしまった。


(なんとしても殺さなければならない。なんとしても……殺してしまえば、そうすれば……そうすれば何だ?)


 ふっと怒りが引いていくのを感じた。そう彼は趙盾を殺した後のことを考えてはいなかった。彼には夢も理想も何も無いのである。趙盾を殺して何をやりたいのかということも無い。ただただ、趙盾を殺したいという感情だけがここまで突き動かしたのである。


 趙盾は彼を擁立した男である。その彼を殺してしまえば、はたしてどう今の状況が変わると言えるのだろうか。政治に積極的でもなければ、徳も無い。そんな自分が趙盾を消してしまった後に何が残るのか。


 何も無い。


 彼には何も無いのだ。


 その時、後ろからぞろぞろと兵がやって来た。


「何者か」


「我が名は趙穿。暗君を弑す者なり」


 彼は剣を抜く。


「私が誰かわかっての狼藉か」


「暗君であろう?」


「無礼な」


 霊公は怒りにかっとなり、兵を呼ぶが誰も答えない。趙盾を殺すために出払っている。


「覚悟」


 趙穿らが霊公に飛び掛かった。霊公は逃げようとする。しかし、鍛えられた兵とは違い直ぐ様、追いつかれ、後ろから斬られた。


(痛い、痛い、痛いよ)


 彼は倒れ込みながらもなお逃げようとして、這いながら桃園に入った。、


(私は、私はただ……ただ……)


「死ね」


 趙穿は剣を振り下ろした。


(私はただ……)


 霊公は絶命した。













 空の下、趙盾はもうすぐ国境に近づこうとしていた。


(どこで間違えたのだろうか)


 彼は空の下、そのようなことを考えていた。自分なりに正しいと思う政治を行ってきたつもりであった。それが、このようなことになっているのは何故なのか。


 趙盾にとっては疑問であった。しかし、その答えを自分では見つけることができないでした。


(天よ。私はどこに間違えたのでしょうか?)


 天に問うも天は答えない。


「主よ」


 そこに家臣が駆け寄る。


「どうした」


「趙穿様が主公を弑したとのことです」


「なんと……」


 趙盾は思わず天を仰ぐ。


(あれほど言ったにも関わらず、何故だ……)


「主よ。もうすぐ国境です」


(国境……)


 この国境を越えれば、いくら一族の趙穿がやったとしても彼は関係無いことになる。越えるべきだろう。


(私は正卿である。主公が死んだ後の混乱を治める義務があるのではないのか?)


 そう自分は正卿なのだ。正卿とは国のため、民のため己を殺し、政治を行う者のことを言うのだ。そんな自分が国が混乱しようという時に国を出ていいのか。


(父上ならばどうなさるだろうか)


 趙盾は父・趙衰ちょうしのことが好きではなかった。


(父上ならば、ここを越えることは無いだろうな)


「戻るぞ」


「戻るのですか」


 臣下が驚く中、彼は気にせず、馬車を都に向け、走らせた。













 霊公の死によって、宮中は確かに混乱していたが、それは……


「主公が弑されたとは誰がやったのだ?」


「なんでも趙穿殿がなさったとか」


「だが、私は正卿殿は国を出たと聞いているぞ」


「つまり……正卿殿の考えではなく趙穿の独断なのか?」


「そうだろうと言われている」


 誰がどのような考えで霊公を殺したのかという話しをする者、


「次は誰が国君となるのだろうか」


 次の国君が誰になるのか話す者、


「正卿がいなくなった後、この国の政治はどうなるのだろうな」


 国を心配する者、など様々な話しを諸大夫たちはしていた。そんな彼らが共通していることは霊公に対して悲しむ者がいないということである。


「誰も悲しんでいないな」


「当然でしょう。先君に同情する者などいないでしょう」


 士会しかい郤缺げきけつもまた、朝廷でそのような話しをしていた。


「趙盾殿は国を出ると聞いたが本当だろうか」


「さあ、しかし出た方が汚名を着る必要がなく良いでしょう」


 国を出れば、趙穿を使って霊公を弑したのでは無く。彼の独断であるという印象を強めることもできる。


「私のように国内で野人として過ごすというのもありますが……あの人はそれをしないでしょう」


 そういう人だと彼は呟く。


「そうだな……」


 その時であった。朝廷に一人の男が駆け込んできた。


「正卿様が戻ってきたぞ」


 その言葉に諸大夫らはざわつき、士会と郤缺は驚く。


「何故、戻ってきたんだあの人は」


 ここで戻っては余計な汚名を着ることになるではないか。


「あの方は我々の予想をどこまでも裏切っていくな」


 郤缺は驚きつつもそう言った。


 そうこうしている内に趙盾は朝廷に戻ってきた。彼は進み諸大夫たちの前に立つと言った。


「皆の者、主公は不幸にもお倒れになられた。大変、悲しいことである」


 悲しそうにする趙盾に諸大夫たちは耳を澄ませる。


(ここで趙穿を殺せば、多少は良い)


 士会はそう思う。趙穿とのつながりを完全に消すことはできないが、族を始末したという評価を得ることはできる。


「我々は今、危機にある。故に我らは一致団結して事に当たる必要があり、次に即位なさる方を早急に擁立しなければならない。誰か、公子で候補はいないだろうか?」


 彼は諸大夫に問うた。彼らは互いに顔を見合わせ、囁きあう。


(どうやら趙穿は始末しないらしい)


(やはり、つながりがあったのではないか)


 士会はため息をつく。


(趙盾は汚名を得ることになった)


「誰か、候補はいないのか」


「少し、時間を頂きたい」


 一人、進みてそう言った。


「わかった。明日までに候補を出すように、では次は」


 趙盾は声を発しようとするその時、一人の男が進み出た。


 男は董孤とうこという。彼は国の歴史を管理する太史であり、新たな記録されたことを発表するためにやってきたのである。彼は書簡を開き言った。


「趙盾はその君を弑殺した」


 書簡にもそう記録されていた。つまり国の歴史として記録されたことになる。趙盾は驚き、


「これは間違いだ」


 と叫んだ。


 すると董孤はこう言った。


「あなたは正卿でありながら、逃走しても国境を越えることはなく(亡命することなく)、戻って来ても賊を討伐しようとはしません。あなたでなくて誰がやったというのですか」


 彼の目には強い意思がある。もし、自分を殺すというのであれば、殺してみろという目である。


 趙盾は嘆息して言った。


「『詩経(邶風・雄雉)』に『自分の懐念のために(国を出ることができず)、憂いを作った』とあるが、これは私のことであるな」


 そして、董孤を処罰することなく下がらせた。


 後に孔子こうしはこの時の一幕についてこう言ったと言われている。


「董孤は古の良史(優れた史官)である。真実を隠すことがない。趙盾は古の良大夫である。法によって悪名を受け入れた。しかしながら彼が国境を出ていれば(晋国での地位を棄てて亡命していれば)悪名から逃れることもできただろうに……惜しいことだ」


 孔子は趙盾は悪名を得たことに嘆いた。彼が嘆かなければ、趙盾の名はもっと小さなものだったかもしれない。





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