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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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翳桑の餓人

本日二話目です。ご注意ください。

 晋の霊公れいこう趙盾ちょうとんのことが憎くて憎くて堪らない。


(やつは私を蔑ろにしている)


 あばよくは自分の地位さえも自分のものにしようとしているのではないか。そのような被害妄想まで抱くようになった。


(そうだ。きっとそうに違いない)


 彼は鉏麑しょげいを呼び、


「趙盾を殺せ」


 彼に趙盾暗殺を命じた。


「御意」


 国君の命は絶対であると考えている彼は相手が宰相というべき者であろうとも、実行できると考えていた。


 ある日の早朝、鉏麑が暗殺をするため、趙盾の家に行くと、寝室の戸は既に開かれていた。


(何故であろうか)


 彼はそう疑問に思いながら、寝室を覗き込むと趙盾が座っていた。


(これほど早く起きているとは)


 鉏麑は今日の暗殺は無理と思い、立ち去ろうとしたが、趙盾の首が動いた。


(気づかれたか?)


 警戒し始める彼であったが、趙盾は彼に気づいたわけではなかった。趙盾の首がこくり、こくりと上下する。


(寝ているのか……)


 彼は趙盾を除き込む、確かに彼は寝ているようだ。また、よくよく見てみると彼は朝廷に行くための正装をしている。


(ああ……この人は)


 鉏麑は寝室から離れると嘆息して呟いた。


「趙孟は恭敬の人である」


 朝早くから入朝の準備を済ませていることは国君や国に対する恭敬を示している。


「恭敬を忘れずにいるのは、社稷の重鎮としての姿勢だ。そのような社稷の重鎮を害すのは不忠。されど主君の命を棄てるのも不信。どちらか一つを犯すくらいならば、私は死ぬ方を選ぼう」


 鉏麑は趙盾の庭に育った槐の木に頭を打ちつけて自殺した。


 しばらくして、この状況を趙穿ちょうせんが発見した。そして、趙盾に報告するとともに倒れている男の身元を確認し、彼は趙盾に言った。


「恐らくこの者は主公の手の者です」


「ならば、何故ここで死ぬ必要がある」


 見たところ、これは自殺である。しかしながら、自殺するにしてもここである必要性が彼には理解できない。


「死んだことが問題なのではないのです」


 趙穿はそう言うが、趙盾はまゆを潜める。理解できないからである。


「どういう意味だ?」


 鈍い、と趙穿は思いながら言った。


「ここに主公の手の者が入り込んだ。何故、入り込んだのか。それはつまり、貴方の暗殺を図ったのです」


 趙穿は断言した。しかし、ここで趙盾の可笑しな所は、


(何故、主公が私を殺す必要があるのだ?)


 霊公からの悪意に気づいてないどころか。趙穿の言葉を冗談だと思った所である。


「そのようなことを無闇に言うものではないぞ」


「貴方は……」


 趙穿は頭を抱えた。趙盾とは長い付き合いである。彼の鈍感さは理解している。だが、ここまでとは思っていなかった。


「冗談ではありません。取り敢えず、主公への警戒を強めるべきですいいですか」


 鬼気迫る表情で言う彼に趙盾は頷く。


「わかった。気を付けよう」


 だが、内心では未だに半信半疑であった。


 ここまでいくと何も言えないものである。
















 九月、暗殺に失敗した霊公は悔しがりながらも次の策を練った。どうしても趙盾を殺したいのである。


 彼は趙盾を酒宴に招いた。会場で甲兵を隠して趙盾を襲うつもりである。そのため霊公は趙盾に気づかれないように自ら酒を勧めるなどした。


 だが、その態度に趙盾の車右・提彌明ていびめいが違和感をもった。


(主公のいつもの態度とは違う)


 霊公はいつも趙盾への悪感情をあからさまに出しており、酒を勧めたことなどなかった。


 彼は小走りで台に登るとこう言った。


「臣下が国君の宴に参加した際、三爵(三杯)を超えたら非礼と申します」


 提彌明は趙盾を抱えて席から去ろうとした。すると霊公は獒(凶暴な犬)に趙盾を襲わせた。


「犬風情が」


 提彌明が戦って獒を一刀で殺した。


 ここまで来て、やっと趙盾は霊公の殺意に気づいた。彼は言った。


「主公は人を用いず犬を用いている。いくら強暴でも犬では役に立たないものだ」


 しかしながら何故、ここで煽るような真似をするのかはわからない。


 少なくとも霊公は激怒した。隠していた甲兵を出した。数が増えたため趙盾も剣を抜き、戦い始めた。


「主よ。早くお逃げを……」


 趙盾を庇いながら戦っていた提彌明は後ろから斬られて殺された。


 一人となってしまった趙盾はもはや絶体絶命と言えた。そのため彼としてももはやこれまでと諦めつつあった時、甲士たちの間で乱れ始めた。甲士の一人が矛を持って、仲間である甲士らを斬り始めたのである。


 そして、趙盾を守るように戦い、遂には脱出までさせた。


 難を逃れて、ほっとした趙盾であったが、自分を守ってくれた男のことを知らなかった。そのため男に問うた。


「何故、私を助けたのだ?」


「私は翳桑の餓人です」


 男は名を告げることなく、その場を立ち去った。


(翳桑の餓人……)


 趙盾はよろよろと立ち上がり、自分の家へと向かった。












 翳桑の餓人と名乗った男の名は霊輙れいちょうという。


 以前、趙盾が首陽山で狩りをして翳桑(地名。または大きな桑の木の下)で休んだことがあった。そこで倒れていたに会った。この男こそ霊輙である。


 趙盾がどうしたのかと聞くと、霊輙は


「三日間、食事をしていない」


 と答えた。


 哀れんだ趙盾は彼に食事を与えた。すると霊輙は半分を残した。


 それに疑問を抱いた趙盾がその理由を聞くと、彼はこう答えた。


「私は仕官するため、游学して三年経ちましたが、家に残した母の存否もわかりません。今、近くまで帰ってきたため、残りを母に譲ることをお許しください」


 趙盾はこの霊輙の態度に共感を覚えた。趙盾は母親思いである。彼は霊輙に全て食べるようにいい、更に食物を袋に入れて与えた。


 その後、霊輙は霊公の甲士になり、趙盾を殺す場面に遭遇することになり、かつて受けた恩に報いるために彼を守ったのであった。


 しかしながら彼は名を名乗ることなく立ち去ったが、彼の名は後世に伝わっている何故なのだろうか?


 かつての恩に報いる行いが感動させるものであったのから名が残るのか。それとも趙盾を助けたから名が残るのか。……

 



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