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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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華元

 紀元前607年


 春、鄭の公子・帰生きせいが楚の命を受けて宋を攻撃した。宋は華元かげん楽呂がくりょが鄭軍を防ぐために軍を動かした。


「鄭も楚に媚びるために大変ですな」


 華元はやれやれという感じに言うと楽呂は答えた。


「我らも同じようなものではないか。前年は私たちも晋に付き合って、鄭を攻めただろう」


「それもそうなのが、嫌なところですな。大国に従わなければならない小国の悲哀これに極めり、という感じでしょうか」


「極めたかどうかは知らんが、我らは我らの職務を果たすだけであろう」


 楽呂は毅然とした態度で答えた。真面目な人である。


「そうですな。良し、ここは太っ腹であるところを将兵に見せましょうかな」


 大きな腹を叩きながらそう言うと華元は臣下に沢山の羊肉を持ってこさせた。


「これらを皆に食わせようと思います」


「おお、感謝するぞ華元殿」


 宋の将兵は華元の用意した羊肉を食べに食べ、戦に備えた。この時、一人だけ羊肉を食べれなかった者がいたのだが、それが彼らに不幸をもたらすとは誰も思っていなかった。












 宋と鄭は大棘(宋地)で衝突した。


 宋の狂狡きょうこうという人がある鄭人と戦った時、鄭人は井戸の中に逃げた。鄭人を追っていた彼は鄭人が井戸に落ちたのだと思った。


 狂狡は元々優しい性格をしており、そのため戟を逆に持って鄭人を井戸の中から救い出そうとした。ところが鄭人は隙をついて狂狡を捕えてしまった。


 君子(知識人)は狂狡を批判してこう言った。


「礼を失い命に背いたのだから、捕虜になっても当然だ。戦場においては、果毅(果敢・剛毅)を示し、命に従うことを礼だ。敵を殺すことが果(果敢)であり、果を達成させることが毅(剛毅)である。その逆を行えば、殺されることになる」


 殺されなかっただけましだたと思うべきだろうか。


 華元は戦車に乗って戦の中、声を張り上げて指示を出していた。彼の御者を勤めていた者の名は羊斟ようしん(字は叔牂しゅくよう)という。


 彼は目を鄭軍に向けていた。


「良し、右の方に車を移動させてくれ」


 華元がそう言ったが彼は微動だにしない。


「どうした何故、動かさん」


 彼を咎めると突然、彼は車右を蹴落とし、車から落とした。


「何をしているのだ。お前は」


 華元が声を張り上げると羊斟は轡を持って、馬を鄭軍に向かって走らせた。


 急に走り出したため、華元は転倒、車の底に頭をぶつけるものの、振り落とされずに済んだ。三人か四人乗ることができるため、結構広い。


 羊斟は言った。


「先日の羊はあなたが取り仕切りました。今度は私が取り仕切ります」


 最初は彼が何を言っているのかわからなかった華元だったが、やがて思い出した。


 将兵に羊を振舞った際、華元は羊斟には羊を取り分けなかった。彼の氏は羊である。そのため不吉と感じたためであった。別に彼に悪意があったわけではないのだ。それに代わりのものはちゃんと渡してもいた。


(えっ、そんなことでこんなことをしているのかこの男は)


 華元は唖然としながら彼を見ていた。


「どこに行くだ?」


 彼が訪ねても羊斟は答えようとしない。


 やがて、戦車は停車した。


「では、私はこれで」


 羊斟は車から飛び降りて、どこぞに去っていった。


「ここはどこだ」


 華元が車から這い出すとどこからか兵が現れた。


「おお、ここはどこか知りたいのだが、聞いてもらえるか。いや、もし鄭の兵ならば答えなくとも良いのだが……取り敢えず、矛を締まってはくれないか。怖くて話すことができんぞ」


 周りを鄭の兵に囲まれながらも華元は言った。


「私は宋の華元だ。捕虜になろうではないか。抵抗はしない」


 兵たちは同様した。まさか鄭の陣地の真ん中で宋の高官がいるとは思わなかったからだ。


「取り敢えず、上官に知らせよう」


 兵の一人がそう言って、このことを知らせた。そして、巡り巡って、公子・帰生の元に届いた。


「華元を捕虜にしただと……」


 流石にそう簡単に信じることはできない。だが、彼としては納得することができる部分があったのである。


 戦の途中、宋軍が突然、動揺し始め、崩れたのである。それにより、鄭は宋の甲車(兵車)四百六十乗が奪い、二百五十人を捕虜とし、百人殺した。


 また、敵将の楽呂が戦死しているのを確認している。


 この大勝がもし、これが華元がいなくなったことが要因ならば納得できる。


「取り敢えず、捕虜にしておけ、帰還の準備を始めておけ」


「御意」


(勝ちが鄭の力というには、些か変ではあるが勝利には変わりない)


 鄭は引き上げた。














「華元が捕虜となり、楽呂は戦死しただと」


 宋の文公は驚きを顕にする。これほどの大敗をするとは思えなかったためである。


「どうしてそのようなことになったのだ」


「それがどうにもわからないのです。華元殿が突然いなくなったらしいのですが、その理由がさっぱりわからなく……」


 文公は頭を抱えた。彼の政治を支えてきた華元は捕虜となり、楽呂は戦死してしまった。大きな痛手であった。


(だが、華元は生きている)


 せめて、華元だけは取り戻したいと考えた彼は鄭に兵車百乗と文馬(毛並みが鮮やかな馬)四百頭を鄭に贈って華元との交換を求めることにした。


 一方、囚われの身となっていた華元だが、


「おおお、苦しい、苦しい」


「どうしたのだ」


 太った男が腹を抱えて、苦しんでいる様子に尋常ではない事態と思い看守は牢の扉を開けて近づいた。


「大丈夫か」


「実は戦の前で羊肉を食べ過ぎましてな。それで腹が痛くて痛くて」


「そうか。医者を呼んでやれ」


 看守は部下に医者を呼ぶように命じ、行かせると牢には看守と華元だけになった。


「ここには二人だけですか?」


「ああ」


「そうですか。では」


 華元は思いっきり看守を殴りつけ、そのまま彼はなんと自力で脱出してしまった。


 ちょうど兵車や文馬が半分ほど贈られた時のことである。


 華元は宋城の門外に至ると、自分の身分を告げて中に入った。


「おっあれは」


 そこで華元は羊斟に遭遇した。そして、彼に言った。


「おお、羊斟。汝が敵陣に駆けたのは、馬のせいか?」


 羊斟は、


「馬ではありません。人のせいです」


 そう言うと彼は魯に出奔した。


 後世の君子たちは羊斟をこう謗った。


「羊斟は人でなしである。個人的な怨みによって国を敗れさせ民に害をもたらした。これ以上重い罪があるだろうか。『詩経(小雅・角弓)』に『人にして良にあらず』とあるが、まさに羊斟のことをいっているのだろう。彼は己を満足させるために民を害した」


 痛烈である。


 文公は華元の無事を喜び、しばらく良く休むように言ったが、彼は首を振り、仕事に戻った。


 後日、宋で城を修築した時、華元が指揮をとって巡視していた。すると労役に従事する人々が歌い始めました


「その目は出目金、腹は太鼓腹、甲を棄てて逃げ帰って来た。顔中は髭だらけなあの男、甲を棄てて巡視に来た」


 立派な外貌をしながら、捕虜になって逃げ帰って来た華元を嘲笑う歌である。


 流石にむっとした華元は驂乗(馬車の同乗者)にこう応えさせた。


「牛がいれば皮があり、犀も牛も欠かさない。甲を棄てて何が悪いのか」


 人々が言い返した。


「牛皮はあるが、(高価な)漆はどうするのか」


 華元は驂乗にそれを聞いて、


「行こう。口では多勢に無勢だ」


 そう言って笑いながらその場を去った。


 この時代、様々な人が出てくるがこれほど愉快な人は彼だけであろう。








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