趙穿
かつて宋が国君である昭公を殺したため、晋の荀林父が諸侯の軍を率いて宋を討伐したが、宋の文公が賄賂を渡して晋の盟を受け入れて帰順したため、晋は文公の即位を認めて兵を還した
また、晋が扈で諸侯と会した時には、魯のために斉討伐が決定されたが、斉から賄賂を贈られた晋はそれを受け入れて兵を還した。
そような状況を見ていた鄭の穆公はもはや晋に文公の頃の面影が無いと感じた。
彼はかつて文公のおかげで国君になったそのため恩は感じてる。もし、文公が生きていれば、絶対に背くことはないのだ。
(しかし、あの方もあの方の作った国はもう無い)
先の二件もあり、彼は晋に愛想が尽きていた。
「晋と組むべきではない(信用できない)」
そう言って、鄭は楚と盟を結んだ。
一方、晋から離れた国もあれば、近づいた国もある。陳である。陳の共公が死んだ時、楚は陳の葬儀に参加しなかった。正直、できなかったというのが正しかったが、怒った陳の霊公は晋と盟を結んだ。
背いたことを安々と許すような楚の荘王ではない。
秋、荘王は陳を攻め、更に宋を侵した。宋を攻めたのは、晋に従っていたからである。
晋の趙盾が陳と宋を援けるために出兵した。すると楚は兵を還した。
「王よ。戦わないのですか?」
「小さな勝利に興味はない」
荘王の頭に敗北の二文字は無い。しかし、彼にとって勝利とは圧倒的かつ徹底的に勝つということである。ここで勝ってもそれほどの意味はもたないと考えていた。
さて、戦う相手がいなくなった軍は停止した。
「どうするべきか……」
趙盾が悩むと、趙穿が進言した。
「我らに背いた鄭を諸侯と共に討伐してはどうでしょうか」
彼の意見を受け入れ、趙盾は軍を棐林(恐らく鄭の北)に進ませ、諸侯に通達した。
それにより、宋の文公、陳の霊公、衛の成公、曹の文公が軍を率いて合流した。
「鄭は愚かですな楚のような酒に溺れている国君がいる腰抜けの国に通じるなど」
陳の霊公が楚を馬鹿にする中、諸侯はその様子をどんぐりに背比べに過ぎないと思いながら見ていた。
こうして晋を中心とした連合軍は鄭に向かった。
その報告が帰還途中の荘王の元に届いた。
「蔿賈を呼べ」
蔿賈が来ると伝令が持ってきた書簡を手渡す。
「勝てるか」
「防衛戦ならば」
「良し、行け」
「御意」
蔿賈は少数精鋭を率いて、鄭の救援に向かった。
楚軍が援軍として北林(鄭地)に駐屯したことは晋軍ら連合軍に知らされた。
「速いな」
士会はそのことを知って、呟いた。楚軍は撤退していたはずなのだ。そこから鄭の救援に駆けつけるには速すぎる。
(鄭を攻めることを予測していた。まさかな……)
そのようなことを暗君と評判の楚君にできるとは思えなかった。
「士会殿、どうなされましたか?」
体の調子が悪いという郤缺の代わりに従軍していた郤克が尋ねる。
「楚軍が救援に駆けつけるのが速いと思ってな」
「それは楚軍は少数なのではないしょうか」
「克殿は良い目をされている。確かに大軍ではないことは確かであろう」
楚が駐屯している北林には林があり、そこに駐屯しているのだ。
「しかし、楚はこのような戦い方をしないと聞いていましたが……」
楚は強兵であると言われている。そのため、正面からの戦いで力で相手をねじ伏せるという戦い方をすると聞いていた。しかし、今回の楚軍は林の中で相手を待ち構えている。いつもとは違う楚の戦い方である。
「克殿、趙盾殿の元へ行こう」
二人は趙盾の陣地に趣いた。
「しばし、様子を見るべきです」
「しかし、趙穿の勧めでもう進軍の命を出してしまった」
士会は内心、舌打ちしたが、
「ならば、我が国が先鋒となるべきです。かつての楚との大戦のおりには我が国のみで戦いました。そのため我が国は覇権を握ることができたのです」
「わかった士会殿の申す通りにしよう」
二人が趙盾の元から離れると郤克は訪ねた。
「この戦負けますか?」
「負ける。楚の戦い方がいつもとは違う。また、それにも関わらず、敵将の情報がわからない。これで勝つのは難しい」
そのため被害を晋だけに留めるように彼は先鋒を晋が務めることを進言したのである。
士会の予想通りであった。
趙穿、解揚が先鋒として楚を攻めたが、林の中で待ち構えていた楚軍に翻弄され、また、林の中では戦車は機能しないため、被害が大きく出始めた。
「戦車は諦めよ。捨てて、壁にして逃げよ」
後から来た士会と郤克の援軍がやって来て、何とか趙穿や兵は助かった。
「報告します。解揚殿が囚われました」
「そうか」
「士会よ。取り返さねばならん」
趙穿はそう主張したが、士会は首を振った。
「これ以上の戦闘は無理です。引き上げましょう」
晋軍は退却した。楚軍は追撃はしなかった。彼らが少数であることも理由ではあるが、それ以上に引き上げるのが上手かった。
楚としても晋の大夫・解揚を捕らえたため、良き塩梅であると判断した。
因みに解揚は後に釈放されている。
その後、連合軍は解散した。
帰還した晋軍の中で不満を持っていた趙穿は秦と晋の講話を主張した。
晋と秦はずっと対立しているため、楚との戦のためにも講話した方が、良いと趙盾を始め考えていたが、秦との溝は大きかった。秦が交渉の場にすら応じないのである。
そこで趙穿は秦を交渉の場に呼ぶための手段としてこう主張した。
「我々が崇(秦の属国)を攻めれば、秦は崇を援けようとするでしょう。それをきっかけに講和を要求することができましょう」
つまり戦で交渉の場を設けようというのだ。
「そのようなこと無理であろう」
士会がこれに猛烈に反対した。講話するということはこれ以降は仲良くしようということであるのに、喧嘩を吹っ掛けておいて、さあ仲良くしようと手を出して握手を求めても握手するわけがないのだ。
流石に彼の意見には身内に甘い趙盾も頭を抱えた。このことから彼もちゃんとした政治家であることがわかる。
しかしながら耳を疑うような言葉が聞こえてきた。
「良かろう」
晋の霊公がこれを認めたのである。
「お待ちください、これは百害あって一利なしというものです」
趙盾が止めようとすると、霊公は彼を睨みつける。
「私は国君だぞ、私の言葉に背くのか」
しかし、霊公はこれを許可してしまった。
「くそ、戦を行う上で余計なものを持ち込みよって」
士会は大いに不愉快になりながらそう言った。霊公が趙穿の意見を受け入れたのは趙盾への嫌がらせであろう。親族の失敗は当主の責任にもなるからだ。
そう言った政争を戦に持ち込んでいるのだ。愚かとしか言い様がない。
そして、案の定、冬、趙穿が崇を攻撃したが、秦は講和に応じることはなかった。
また、失敗してしまった趙穿は北林の役の報復を行うことを主張、霊公はこれまた受け入れた。
晋は宋と共に鄭を攻めた。
「戦はおもちゃでもなんでも無いぞ」
士会はここまでの晋の動きに不愉快になりながら呟いた。




