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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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覇者、即位す

 四月、陳の共公きょうこうが死に、子の平国へいこくが立った。これを陳の霊公れいこうという。


 後に稀代の美女と関わることになる人物である。


 五月、邾の文公ぶんこうが繹(邾の邑)への遷都について卜った。


 史官が言った。


「国民には利がありますが、国君には利がありません」


 つまり、国民にとっては良いことでもあなたにとっては悪いこと、亡くなっていますということである。


「民の利とは孤(国君の自称)の利である。天が民を生んでからその君を立てるのは、民の利とするためである。民に利があるのならばそれを実現させなければならない」


 それを聞いた近臣が言った。


「寿命は長くすることができます。主君はなぜ長寿を求めないのですか?」


「国君の寿命とは民を養うためにある。命の短長は時(時機・機会)によって左右されるのだ。民に利があるのならば、遷都しよう。これ以上の吉はない」


 こうして邾は繹に遷都した。


 その後、卜い通り、邾の文公が世を去った。


 当時の君子たちは邾の文公は天命(ここでは寿命と言ってもいい)を理解していたと言って称賛した。


 彼の後は子・貜且じょうしょが即位した。これを邾の定公ていこうという。


 因みにこの後継者を決める際、大夫たちの間で議論され、問題が起きていたため、それが後に邾が攻め込まれることになる。


 












 この頃、魯は天候不順で苦しんでいた。正月から魯で雨が降らなかったのである。


 七月にやっと雨が降ったと思えば、魯の大室(太廟の部屋。太廟は周公・たんの廟)の屋根が倒壊するという事件も起こった。


 魯の臣下たちが恭敬でなくなったことが原因とされている。


 そんな中、冬、魯の文公ぶんこうは晋に向かった。過去の盟約(紀元前619年。衡雍の会)を再確認するためである。


 その途中で衛を通り、衛の成公せいこうと沓で会しました。成公は魯に晋との和平の仲介を求めた。衛はこの頃、狄の侵攻を受けており、晋との和平を望んでいたのである。文公は同意した。


 十二月、魯の文公と晋の霊公れいこうが会盟した。


 その後、文公が晋から帰国する途中、鄭の穆公ぼくこうと棐で会した。穆公も晋との和平の仲介を求めた。この頃、晋にもっとも近い国は魯であった。今までは宋が近かったが、楚と結んだからである。文公は同意した。


 穆公は棐で宴を開き、鄭の大夫・子家しかが『鴻雁(詩経・小雅)』を賦した。


『鴻雁が飛び、羽をはばたかせ。我が子は徴集され、遠野で労苦する。貧苦の者は嘆息し、鰥寡(親族がいない者)の孤独を憐れむ』という内容で、「鰥寡」は鄭を喩えており、憐れな鄭のためにもう一度晋に行って和平の仲介をしてほしい、という意味である。


 これに対して文公に同行していた魯の季孫行父きそんこうほが、


「我が君も立場は同じです」


 と言い、『四月(小雅)』を賦した。


『四月は既に夏になり、六月は酷暑が襲う。先祖は他人ではないにも関わらず、なぜ我々を苦しめるのだろうか』という内容。


 真夏の労役に駆りだされた大夫が怨みを込めて歌った詩と言われており、彼は魯が鄭のために再び晋に行くことを断ったのである。


 すると子家が『載馳(鄘風)』の一部を賦した。


『大国の援けを得たいものの、誰が協力してくれるだろうか」という内容である。鄭は楚と結んでいたが、正直、楚の穆王ぼくおうのあり方は好きになれない。だが、楚と対立している晋と結ぶには魯の力が必要なのに何故、助けてくれないのかと言いたいのである。


 かつて強国であった鄭の悲しさが漂ってくるようである。


 季文子はついに『采薇(小雅)』の一部を歌って同意した。


『安住に甘んじていられるだろうか。一月に三回功を立てる』という内容である。


 穆公は魯の協力に感謝して拝礼し、文公も答礼した。


 その後、再び魯は晋に行き、鄭と晋の和平も成立させた。これがきっかけで翌年、諸侯が会盟することになる。
















 鄭の楚からの離反は穆王を嫌ったためだが、この年、穆王が死んだ。


 彼は太子の座を失うと思い、父・成王せいおうは死に追い込み、国君となったが、父のような志は無く。諸国に恫喝に近い行いをするだけで、楚を発展させるような努力を怠った。


 もし彼が父を死なせた汚名を注ぐような政治を行い、諸国と相対せば、晋に幼君が立ち、諸侯が不信感を抱いていたのだから、彼の代で覇者になることもできたかもしれない。


 彼の後は子の楚の荘王そうおうが即位した。


 後に春秋五覇に数えられることになる名君である。


「我こそが王、王とは神聖にして絶対、如何なる者も我に跪かねばならぬ」


 彼は手を突き出し、まるで何かを掴むような動作をする。


「天命、我が手に」


 しかしながら彼の名が輝くのは少し先のことである。



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