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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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祖父の教え

 魏にある一団が近づいてきた。


「来たか……」


 士会しかいは複雑そうに一団を見つめ、近づく。


「貴方様」


 一団の中から女性が彼に近づいていく。士会の妻である。


「怪我は無いか?」


「ありません」


「そうか良かった。良かった」


 安堵する士会に郤缺げきけつが近づく。


「言っただろう。秦君は臣下の愛し方を間違えないと」


「その通りです」


 士会は彼の方を向く。


「だからこそ、私は許せないのです。あなたは以前、秦へ家族を送ってくれたこともあった。それには感謝していますし、このような手ではあるものの、国に必要であるということは嬉しく思います。それでも私はこのような国に仕えたくはないのです」


「このような国だからこそ、汝が必要なのだ」


 士会が怒りを顕にする中、郤缺はそう言った。


「この国は文公ぶんこうの作った国からかけ離れた国になろうとしている。その国を何とかするにはお前が必要なのだ」


 彼の言葉に無言になる士会を見ながら彼は士会に近づく。


「お前の家は残してある。そこに住むと良い。それから朝廷にも出てもらうぞ」


「私は……」


「ここで断れば、ここにいる家族はどうなる?」


 郤缺の言葉に士会は言葉に詰まる。


「取り敢えず、屋敷に行って休め、良いな」


 彼の言葉に士会は頷く。それを見て郤缺は目を細める。


「後、汝に少し助言をしよう」


「助言……」


「汝は少々、才気が有り過ぎる。そのため汝はその才気に振り回されている」


 才気が人を振り回す。そのようなことがあるのか……そのようなことを思いながら士会は彼の言葉の真意を探ろうとする。


「そのように汝は私の言葉を深読みしようとする」


 郤缺は指を差しながら言う。


「だから私の策に引っ掛かった」


 思わず、士会は彼を睨みつけるが郤缺はどこ吹く風である。


「汝は祖父と一度向き合うことだ」


「どういう意味でしょうか?」


 士会が問うものの、彼は答えようとはせず、彼から離れていった。


















 士会は郤缺の言葉の意味を考えながら、屋敷に着いた。


「どこも変わってないな」


 かつて住んでいた懐かしい思い出のある屋敷であった。


「あっ」


 屋敷に近づくと声が上がり、中から一人の青年が出てきた。


「叔父上」


 彼を見て、士会は目を丸くする。


士渥濁しあくだくか」


 二人は駆け寄り、互いの無事を祝う。


「叔父上、無事で何よりでございます」


「汝こそ、処罰されずに済んで良かった」


 士渥濁は士会の兄・士縠しこくの子である。士縠はかつて乱を起こし殺されている。


「郤缺殿が庇って下さりました」


「そうか……」


 郤缺はどこまでも士会の家に配慮している。だが、それが全て自分を利用しようとしているためのものではないか。そのように考えてしまい、嬉しくは思えない。


「正卿の趙盾ちょうとん殿は苛烈なお方ですが、真に郤缺殿はお優しい方です」


 士会にとっては少し首を傾げたくなる言葉である。士会は趙盾に会ったことがあったが、趙盾に苛烈なところがあると思ってことはない。


(何を考えているかわからないという印象はあるが……)


 だが、良く良く考えてみれば、趙盾は苛烈な手を使ってはいる。


(なるほど、趙盾と会ったことの無い者や下の者にはそういう風に見えているのか……)


 はっきり言えば、趙盾はわかりづらい人なのである。そんなわかりづらい人が政治の実験を握っているのだ。


 わかりづらい人が政治を行っているとそれに従う民は混乱するものである。


 また、郤缺に関しては嵌められたこともあり、優しい人とは思えない。


「叔父上、どうぞこちらへ」


「ああ」


 彼の案内によって屋敷に入った。中も以前とは変わっていなかった。


「変わってないな……」


 ふと、ある部屋が目にとまった。祖父・士蔿しいの部屋である。彼はその部屋の扉を開けた。そこにはたくさんの書物が置いてあった。


「いつもお祖父様はここで書を読んでいたな」


 幼い頃に亡くなったため、あまり過ごした記憶は無い。


(お祖父様には良く頭を杖で叩かれたものだ)


 士会は若い頃は書物を読まず、矛を振り回し武術の稽古を良くしていた。そのため祖父や父に杖で叩かれた。後に彼も自分の子を杖で叩くため、杖で叩くのは士氏のお家芸である。


『会よ。礼を学べ、我らのようなものは礼を学ばなくてなならない』


 杖で叩いた後、祖父が言った言葉である。その他にも言われたが、それが一番印象に残っていた。


『お祖父様、礼を学ばなくとも生きることができます。家のことは兄がいます。私はこれでいいのです』


 幼い頃の彼がそう言うと祖父は目を細め答えた。


『礼を学ばなくては、人は人らしくいられない。礼を学ばなければ、人は己の業に囚われる。礼を学ばなければならない。我らのような者は特に……』


(当時の私はその意味がわからなかったが、お祖父様はそれ以上、仰ることはなかった)


 今、思うと不思議なことを言われていたものである。


『汝は祖父と一度向き合うことだ』


 あっと郤缺の言葉を思い出した。彼はこのことを言いたかったのではないか。そのようなことを考え始めた。


「どうなさいましたか?」


「士渥濁よ。私の部屋はここで良い」


「えっ」


「私はここでしばらく書を読む」


 これ以降、士会は祖父の部屋で書を読むようになった。


(これほど書にはいろんなことを書かれていたのか……)


 今まで、録に書物を読まなかった彼にとって、読書を始めると新しい発見に満ち溢れていた。また、驚くべきは彼はここで初めて兵法書も読み始めたことである。


 つまり彼は感覚で軍事を行っていたことになる。


(面白いな。これほど書を読むことが面白いとは思わなかったものだ)


 そんな彼が書物を読む様子はかつて士蔿の姿と重なって見えた。


 士会が静かな時を過ごしていく内、天下を大きく揺るがすことになる人物が歴史の表舞台に立とうとしてた。


やがて彼はその人物と対峙することになるのだが、そのことを彼は知る由もない。













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