表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

197/557

叔孫得臣

 夏、魯の叔彭生しゅくほうせいが承筐(または「承匡」。宋の地)で晋の郤缺げきけつと会った。


 楚に帰順する諸侯(陳・鄭・宋)についての対応を図るための会だが、郤缺は叔彭生の態度を見て、魯は心の底から晋との協力をするつもりはないと見抜いた。


(仕方ないか。それほどに晋への不信感が募っているということだ)


 実際に諸国と相対して、わかるものもある。彼はそのことを実感した。


(この不信感はそう簡単に拭えるものではない。これを何とかするには、相当の覚悟は必要になるだろう。そう例えば……)


 この頃から郤缺はそのことを考え始めた。








 秋、魯の公子・すいが宋を聘問した。宋は楚との同盟国である。夏に晋と会っておきながら、宋に出向いた。


 公子・遂は以前、魯に亡命していた司城・蕩意諸とういしょの帰国を許すように弁明を行い、宋は蕩意諸の帰国を許した。


 同時に公子・遂は楚軍による戦いで宋に被害がなかったことを祝福した。


 こうやって見ると蕩意諸のために心を配り、宋のことを思いやっているように見えるが、これは蕩意諸を使って、宋を通して楚にもいい顔をするという。複雑な外交を行っている。晋、楚という強国に挟まれている悲しさが漂ってくるようだ。


 この頃、長狄族(狄には赤狄、白狄、長狄の三種類がいた)の鄋瞞(国名。防風氏の子孫の国といわれています)が斉を侵した。その後、魯にまで攻撃を仕掛けた。


 彼らはかつて宋と戦い、宋に大きな被害をもたらしたこともある強力な敵である。魯の文公ぶんこうは誰に討伐を任せるか頭を悩ました。そんな中、叔孫得臣しゅくそんとくしんが戦に出ることを請うた。


 そこで文公は彼に迎撃させることを卜うと「吉」と出た。そこで侯叔夏が(こうしゅくか)を叔孫得臣の御者に、緜房甥めんぼうせいが車右に、富父終甥ふほしゅうせいが駟乗に任命し、出陣させた。


 この出陣で興味深いのは、戦車に四人乗っていることである。古代の戦車は通常、三人乗りだが、車右の補佐として四人乗ることがあった。その四人目を駟乗という。


 十月、叔孫得臣が鹹(魯の地)で狄軍を破って狄の猛将・長狄僑如ちょうてききょうじょを富父終甥が戈で首を突いて殺した。


 僑如の首は子駒の門に埋められた。子駒の門は魯の外郭(外城)にある三つの北門のうち、西側に位置する門である。


 叔孫得臣は長狄僑如の他にひょうも捕え、これを斬った。


 彼は戦勝を記念して「僑如」「虺」「豹」を三人の子の名にした。自分の子の名前を殺した相手の名前にするという現代の我々からすると不気味この上ないが、この行為は自分の功績を誇る意味がある。このうち叔孫僑如は後に得臣の後を継ぐことになる。


 また、魯に敗れた長狄族はやがて晋や斉、衛と戦い滅亡していくことになる。













 紀元前615年


 郕国の太子・朱儒しゅじゅが安逸な生活を求めて夫鍾(郕の邑)に住むようになった。郕の都から出た太子から国人の心が離れていっていた。


 彼は恐らく、宮中での生活が息苦しくこのようなことをしたのだろうが、それは許されないものであった。


 正月、郕君が死んだ。郕の人々は相談し、太子を避けて別の者を国君に立ることにした。


 これを知った太子・朱儒は夫鍾の地と郕の宝物を魯に譲って亡命した。害されると思っての亡命である。どこまでも自分勝手だと言えるが、反乱を起こさないだけマシかもしれない。


 文公は朱儒を諸侯として迎え入れた。土地と宝物を譲ってくれたための行為であったが、人々から実際には諸侯ではないのに諸侯の礼を用いたことは、非礼であると批難された。


 この頃、楚の令尹・成大心せいたいしんが死に、成嘉せいか子玉しぎょくの子、成大心の弟)が令尹になった。


 これを知った群舒(偃姓で舒を国名につける舒庸、舒蓼、舒鳩等の国)が楚に反旗を翻した。これを許すような楚の穆王ぼくおうでは無い。


 夏、子孔しこう(成嘉の字)を出陣させ、舒君・へいと宗君を捕え、巣(群舒の地)を包囲した。












 秦の康公こうこう西乞術せいきつじゅつを魯に送って聘問し、晋討伐について話した。西乞術はこの件を含めて魯に礼物の玉を贈ろうとした。


 魯は以前、秦が魯の僖公きこう成風せいふうの死を悲しんでくれたこともあり、秦へは好意的であったが、晋討伐の件は何ら意見を述べず、魯の公子・遂は断った。


「秦君は先君との誼を忘れることなく、魯国に照臨して社稷を鎮撫されました。このような大器を贈られましても、寡君(魯君)が受け取ることはできません」


 謙遜と見ることもできるが、晋討伐のことを晋には言わないが、後で晋に秦からの宝物をもらったことで咎められるのも嫌ったのである。


 そのことを理解しつつも西乞術が言った。


「微薄な器物です。辞するには及びません」


 しかし襄仲は三回辞退した。


 西乞術は少しむっとした。ここまで断れると逆に嫌なものである。


「我が君は周公旦しゅうこうたん・魯公・伯禽はくきんの福によって貴国につかえたいと思い、下臣(西乞術)を派遣し、先君から伝わる微薄の敝器(粗末な器物)を瑞節にして友好を約束したいと思われたのです。これは我が君の命を示すものであり、二国の友好の象徴でもあります。だから敢えてお贈りするのです」


 魯の配慮も嬉しいが、それよりも魯との友好を秦は望んでいるのである。


 公子・遂は言った。


「このような君子がいなければ国を治めることはできないだろう。秦は辺境の劣った国などではない」


 この言葉をよくよく考えると魯は以前から秦を蛮族と思ってるということがわかる。これは魯だけではなく。中原諸侯全体であろう。


 彼は西乞術を厚くもてなした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ