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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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楚王の苛立ち

 かつて楚の范邑に住む巫・矞似きょうじが楚の成王せいおう子玉しぎょく子西しせいに言った。


「三君は強死するでしょう」


 強死すると言われた三人の内、子玉は城濮の役で楚が大敗した時、自害して死に、成王は子の穆王ぼくおうに攻め込まれ、彼もまた自害していた。


 最後の一人である子西は子玉と一緒に自害しようとしていたが、縄が切れたことで死ねず、そこに成王の使者が来たことで死なずに済んだ。また、この時、成王は子西を商公(商密の長)に任じていた。


 後に子西は漢水を溯り、長江に入って楚都・郢に向かった。乱を謀ったのである。彼としては戦の責任としえていつ殺されぬのか戦々恐々だったためである。しかしこの時、渚宮(別宮)にいた成王が宮殿を出ており、ばったり会ってしまった。


 子西は突然現れた楚王に恐れ、言った。


「私は死を逃れることができましたが、讒言によって臣が逃走しようとしていると噂されております。私は司敗(司寇。刑獄を掌る官)の裁きを受けて死にたいと思い、参上しました」


 成王は子西が乱を起こそうとしたのだと思ったが、咎めることはなく工尹(百工の長官)に任命した。


 それから時が経ち、子西は子家しかと共に穆王を殺そうとした。


 彼が穆王を殺そうと思う理由は、成王が二度も命を助けてもらえた恩義のためか、穆王ならば乱を起こそうとした事実に対して、許さないと思ったのか。理由は色々考えられるが、はっきりとした理由はわからない。


 しかしながら穆王はこの陰謀を知った。ただでさえ、秦への出兵が行えないこととなったことで苛立っていたこともあり、激怒した。


 五月、穆王は子西と子家の二人を処刑した。


 こうして巫・矞似の予言は当たったのであった。
















 内乱の芽を潰した穆王は陳の共公きょうこうと鄭の穆公ぼくこうと息で会見を行った。宋に攻め込むためである。


 冬、楚の穆王と陳の共公、鄭の穆公、蔡の荘公そうこうが厥貉(または「屈貉」「厥憖」「屈銀」)に駐軍した。


 宋の司寇・華御事はこれを憂いて言った。


「楚は我が国の服従を望んでいる。我が国が自主的に帰順の意志を示せばいいのではないか。そうすれば、こちらに押し寄せては来ないだろう。我々が対抗していまえば、民に危害が加わってしまう。民には何の罪もない」


 宋は楚が来る前に、狄の侵攻を受けており、疲弊してもいた。そのため華御事は穆王を迎え入れて慰労し、命を聴くことにしたのである。


 講和が成り立つと華御事は穆王を誘って孟諸で狩りを行うことにしら。宋の昭公しょうこうが右盂(盂は円陣。狩猟の陣のこと)を、鄭の穆公が左盂を指揮し、期思公・復遂ふくすい(期思は楚の邑)が右司馬に、子朱ししゅ文之無畏ぶんしむい申舟しんしゅう、申は食邑名。字は子舟ししゅう。楚の文王ぶんおうの子孫)が左司馬になった。


 穆王は火を起こす道具を車に乗せ、早朝から出発するように命じた。しかし、この命に昭公が背いた。彼は楚に屈することを良しとはしてはいなかったのである。


 これを見た子舟は昭公の僕を鞭打って全軍の見せしめとした。


 ある人が彼に言った。


「あなたは剛直すぎます。国君を辱めてはなりません」


 昭公の僕を鞭打ったことは昭公を辱めたことになる。そのため余計な恨みを買うと思ったための言葉であった。


 それに対し、子舟は答えた。


「官を与えられた以上、任務を全うするだけだ。これを剛直とは言わない。『詩経』にこうある『剛物を吐き捨てず、柔らかい物とて飲みこまない」


 剛強の者には負けず、柔弱な者を虐げないという意味である。


「またこういう句もある。『狡猾な者に容赦せず、無法なる者を取り締まる』これらは強い者から逃げないという意味だ。命を惜しんで官(職責)を乱すようなことがあってはならない」


 彼は自分の職務に真面目なのだろう。だが、彼の行動は宋からすれば、楚の傲慢さであると見た。この楚への反感によって彼は己の命を縮めることになる。


 このように穆王を始めとする諸侯が厥貉に会した時、麇君もいたのだが、彼は何故か楚を恐れ、この会から逃げ出したのである。


「おのれ、許さん」


 穆王は宋などの諸侯が従うようになった会で機嫌が良くなっていたにも関わらず、麇君が逃げ出したため、激怒し、


 翌年、紀元前616年


 春、穆王は麇討伐を行った。軍を二手に分けて、進軍を行わせ、成大心せいたいしんが防渚で麇軍を破り、潘崇は錫穴にまで攻め込んだ。


 自分の思い通りにならんと、穆王は苛立つ。

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