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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第六章 覇権争い

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愚鈍なる晋

 晋が内乱によって混乱している中、その状況を好機と見た楚の大夫・范山はんざんが楚の穆王ぼくおうに進言した。


「晋の国君は幼く、その志は諸侯を向いていません。今なら北方を図ることができましょう」


 穆王はこれに頷くと狼淵(または「狼溝」「狼陂」)に駐軍し、鄭へ侵攻。鄭の公子・けん、公子・ぼうおよび楽耳がくじ(三人とも鄭の大夫)を捕えた。


 鄭の穆公ぼくこうは晋が助けてくれなかったため楚と講和した。


 晋は鄭を見捨てたわけでは無い。援軍は出そうとしていたのである。現に晋の趙盾ちょうとん、宋の華耦かぐう、衛の孔達こうたつ、魯の公子・すいおよび許の大夫と楚に攻められた鄭を救うため、集まった。


 しかし、この連合軍の動きは遅かった。


「晋が鄭を救うとして、我らを集めたにも関わらず何故、動かぬのでしょうか」


 華耦が趙盾に意見を求めると彼は答えた。


「斉がまだ、来ておりません」


 そう、この会には斉も呼んでいたのである。だが、その肝心の斉は来ていなかった。


「鄭は一刻も早く、助けを求めているのですよ。斉を置いてでも行くべきです」


 だが、趙盾は動こうとしない。


「楚は強兵です。力を合わせて、戦わなければなりません」


 飽きれて、ものが言えないとはこのことだろうか。鄭を助けるために諸侯は晋の要請に答え、やって来たのである。それにも拘わらず、足踏みしていてはここに集まった意味が無いではないか。


 かつて晋は自国の兵のみで楚と戦い、勝利して覇権を握ったではないか。その頃の晋はどこに行ったのか。


 その後、ようやく重い腰を上げて、動き出した連合軍だが、鄭と和睦を結んだ楚は既に撤兵し、追いつくことができなかった。


「何のために我らは集まったのだ」


「とんだ無駄骨であったわ」


 諸国の代表者はそれぞれ愚痴を零しながら、帰還した。


 これにより、諸侯の晋への不信感は更に募っていったと言えよう。


 さて、晋があれほど待っていた斉は何故、来なかったのかと言えば、狄が斉に侵攻していたためである。


 そのような事態を考慮できず、臨機応変に態様できないのが、今の晋の上層部であった。


 














 秋、この晋の動きの鈍さは楚にとって好都合であった。楚は次に陳(晋の同盟国)へ侵攻し、壺丘(または「狐邱」)を占領した。


 楚の息公・子朱ししゅも東夷から陳へ侵攻した。しかしながら彼にとって予想外のことが起きた。晋からの援軍は見込めないと思ったため陳が一致団結し、反撃して来たのである。


 陳は楚軍を敗り、楚の公子・はいを捕えた。


 これを知った楚は次はこうは行かないと更なる軍を動かそうとした。流石に、先ほどのようなことは無理であろうと判断した陳は楚を恐れて講和した。


 これに気を良くしたのか冬、楚の子越しえつ闘椒とうしょう、子越は字)を魯へ聘問させた。


 さて子越という人は名臣と名高い子文しぶんの甥である。しかしながら彼は性質の良い人とは言えない。彼は幣(礼物)を持っていたが、その態度は驕慢だった。


 これを見た魯の叔仲恵伯しゅくちゅうけいはくは言った。


「あの者は若敖氏の宗族を滅ぼすだろう。先君に対して驕慢では神が福をもたらすことはない」


 彼の言葉を聞いて、子越が驕慢であるのを見せたのは魯に対してでは無く、先君への驕慢なのかと思うだろうが、当時、使者は帰国後に宗廟に報告する必要があった。使者としての態度が驕慢であれば、宗廟への報告も驕慢な内容になってしまうという考え方があったため、『先君に対して驕慢』ということになるのである。


 また、若敖とは楚王の先祖で、若敖が鬬伯比を産み、伯比が令尹・子文と司馬・子良を産み、子良が子越を産んでいる。この家系を若敖氏というのである。


 このように子越を非難した魯だが、一方の秦の態度には関心した。


 秦が魯の僖公きこう成風せいふう(僖公の母)のために襚(死者に着せる服)を贈ったのである。


 僖公は紀元前627年に死に、成風は紀元前623年に死んでいるため、すでに長い時間が経っているが、魯は秦の行為を礼があると評価した。


 年が明けた紀元前617年


 三月、魯の臧孫辰ぞうそんしんが世を去った。


 彼は長きにわたり、魯という国において重責を担い、魯に起きる様々な国難に対処していき、時には非情な手も使うこともあった。また、彼は後世においては孔子こうしに非難を浴びることをあった。しかし、彼が魯の外交を担っている間、強大化する斉や楚などに対し、決して卑屈にならず、それでいて魯という国の存在感を保ち続けてきた。魯を守り続けたのは彼と言えよう。



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