先蔑
公子・雍と士会が晋へ出発した。
「士会よ」
「何でしょう」
「先蔑の姿が無いようだが、どうかしたのか?」
公子・雍が尋ねると彼は答えた。
「ああ、何でも先蔑殿は体調が優れぬと言われ、秦に残っております」
「そうか。大事が無ければ良いのだがな」
そのように心配されていた先蔑だが……
公子・雍らと離れ、馬を大急ぎに駆けさせていた。
彼は使者として行く前、荀林父に言われていたことを思い出していた。
荀林父は彼にこう言った。
「国内に夫人も太子もいるにも関わらず、外から新君を求めるべきではないとは思わないか。病と称して断ってはどうだ。そうしなければ汝に禍が訪れることになる。他の卿が行けば充分ではないか。なぜ汝が行く必要があるのだ。同じ官にいた者を『寮』という。我々はかつて同寮(同僚)だった故、汝に心を尽くして忠告するのだ」
以前、荀林父が中行を、先蔑が左行を指揮したことがあった。そのため彼らは友人関係にあった。
だが、先蔑は聞き入れなかった。更に荀林父は『板(詩経・大雅)』の第三章を賦した。同僚のために忠告する姿が描かれた詩である。
しかし先蔑は使者として秦に行った。
彼は荀林父の言葉に従うべきであったと後悔しながら馬を駆けさせる。やがて、晋の旗がはためく軍勢が見えた。
そして、彼が陣営に近づくと荀林父が兵を率いて近づいてきた。
「良く戻った。さあ来てくれ何、心配するな。汝も士会も処罰はされぬ」
彼は晋の霊公が即位することになったことを先蔑へ密かに伝えていた。
「汝の言に従っておくべきであった」
「気にするな。汝の責任では無い。それよりも公子・雍と士会にはこのことを伝えてはおらぬな」
「ああ」
「それで良い。汝は下軍を率いろ。主公が即位なさった以上、晋に軍を率いて来た者は敵だ。良いな」
「わかった」
先蔑は目を伏せて頷いた。
晋は公子・雍擁する秦軍を防ぐために兵を発し、上軍の将・箕鄭には、晋都の守備を命じた。
中軍は趙盾が将に、先克が佐になり、荀林父が上軍の佐になった。
上軍の将である箕鄭が国内に留まっていたため、荀林父が上軍を指揮する。下軍は晋に先に帰国した先蔑が将に、先都が佐になり、歩招が趙盾の御を、戎津が車右を務めた。
晋軍が堇陰(晋地)に至ると趙盾が全軍に命じた。
「我が国が公子・雍を受け入れるのであれば、秦は賓客である。されど受け入れないと決めたのであれば、秦は敵である。我が国は既に秦を受け入れないと決めた。ここでぐずぐずとしていれば、秦は別の計略を考えるようになるだろう。人に先んじて敵の戦意を奪うのは優れた計略というもの。逃亡者を追うように敵を駆逐するのは、優れた作戦というものだ」
趙盾は兵を訓練し、武器を研がせ、兵に秣を、兵には充分な食糧を与え、夜間の中、密かに兵を動かした。
「敵襲、敵襲」
秦軍に兵の絶叫が轟く。
「どういうことだ」
「わかりません」
公子・雍と士会は動揺する中、兵が駆け込んできた。
「敵軍の旗が見えました。晋軍です。我が軍に攻撃を仕掛けたのは晋軍です」
「なんだと」
兵の報告を聞き、公子・雍は激高する。
「公子様。ここは一旦、後退するべきです」
士会は進言するが、
「何故だ。何故だ」
公子・雍は動揺するだけで彼の言葉を聞いてない。
(不味いこのままでは……)
「伝令、各陣営の兵に後退の準備を始めさせよ。準備が完了次第、後退する」
「御意」
伝令が各陣営に向かって走り出す。
「公子様、後退します」
「何故だ。何故だ。国が何故……私を裏切ると言うのか……」
士会は目の前の公子・雍の姿を見ていられず、傍にいる兵に任せるとその場を離れた。
辺りは暗闇だが、叫び声が木霊している。
「これが……戦か……」
彼にとって負け戦というものはこれが最初である。また、今までのような矛を持って、戦場を駆け巡る戦でも無い。
「あれは……」
暗闇の先に晋の旗が見えた。
「これが……我が国のやり方というのか」
自分の国への思いが崩れていくと同時にどこか冷静になっていく自分がいた。
そこに兵がやって来た。
「士会様。ほとんどの陣営が破られ、準備もままなりません」
「そうか……一番遠い部隊はどこだ?」
士会は目を細め、兵に言った。
「右翼の一番端の部隊です」
「彼らの火を持たせ、敵を誘導させよ」
「それでは……」
兵がそこまで言って、震えた。士会の目に恐れたのである。
「そうだ彼らは囮だ。彼らに誘導されている間に撤退する」
兵は震えていると士会は目を更に細める。
「良いな」
「御意」
兵が駆けていく姿を見る士会の目は闇の中で鈍く光り続けた。
四月、晋軍が令狐で秦軍を破った。されど公子・雍は捕らえることができず、また囮と思われる部隊を追いかけたため、思ったよりも秦軍の数を減らせないまま刳首まで追撃した。
「思ったよりも秦軍というものはしぶといものだな」
趙盾は追い込んだ秦軍を見ながら呟いた。
「全く、さっさと我らに敗れれば良いものを、そうは思わんか荀林父よ」
先克が言うと荀林父も頷く。
「しかしながらこれ以上、追い詰めすぎて彼らが死兵となるのも、厄介です。ここは先蔑殿を使者として説得させるというのもどうでしょう」
荀林父が先蔑に目を向けると先蔑びくりと体を震わす。
「それは良い考えだ。先蔑殿、行ってもらえないだろうか?」
趙盾はその意見に同意する。
先蔑は助けを請うように荀林父を見るが、彼はしれっとした表情で先蔑を見ようとしない。
「承知しました」
彼は拝礼した。
(困ったものだ。どのような顔をして行けば良いのだ……)
先蔑はそう思いながら、秦軍の元に出向いた。
「晋の使者である。公子・雍にお会いしたい」
先蔑がそう言ってしばらくすると士会が近づいてきた。
「先蔑殿……なるほどあなたには事前に話しが伝わっていたということですか」
「それは……確かに汝に知らせなかったのは悪かった。だが……」
彼は言いづらそうにしていると士会は目を細め言う。
「お気になさらず、私にはそのことを知らせてくれる者がいなかったというだけです。さあ、こちらへ」
「ああ」
士会の態度に違和感を感じながら彼は進んだ。
「どうぞ」
士会に案内されたのは小さな陣幕であった、先蔑が入ると一人の男が横たわっていた。
「まさか……」
「ええ、お亡くなりになられました」
士会は目を伏せ、悲しそうに言った。
「そうであったか」
先蔑もまた、悲しそうに言った。
「最後に公子様は秦の兵に罪は無いこのまま、返してもらいたいとのことでした」
「わかった。伝えておこう。汝はどうするのだ」
「秦へ連れて行く者が必要ですし、公子様のご遺体を守って秦に行こうと思います」
「そうか……」
先蔑は彼の言葉を聞くと、本陣に戻り、彼から聞いた話しを伝えた。
「そうであったか。公子・雍が亡くなったのはとても悲しいことだ」
趙盾は悲しそうにしながら先蔑に言った。
「士会殿だけでは、秦に伝えるのは難しいだろう。汝も共に行くと宜しいでしょう」
「私もですか……」
「ええ、あなたは秦君ともお会いになっており、こちらの事情も知っています。あなたが適任でしょう」
趙盾は穏やかな表情で言った。
「承知しました」
(もしや、私を秦に始末させようと言うのではないだろうか)
先蔑は趙盾の言葉に恐れを抱きながら、その場を離れた。




