小さな主従
紀元前620年
春、魯の文公が邾を攻撃した。晋が晋の襄公死後、後継者が定まらないという国難に遭っていたため、その隙をついた出兵であった。
魯は晋との関係を重視しておきながら魯は晋に背く行為をした。魯は礼を重視する割には、こういう狡さを示す国である。
三月、魯は須句を占領した。
須句はかつて邾に滅ぼされていた国だが、その後、魯によって復国されていたが、しかし復国後、再び邾に滅ぼされ、その領土になっていた。
当時、邾で政争があり、邾の文公の子が魯に出奔していた。そのため魯は邾の文公の子を須句大夫にして須句を守らせた。
その頃、士会と先蔑が秦に入った。
「私が秦君の元に使者を出しておこう。汝は先に公子・雍の元に出向き、国君に選ばれたことを伝えよ」
「承知しました」
士会は彼の命を聞き、公子・雍の元へ出向いた。
(どんな人であろうか)
晋の新たな国君になるということは天下の覇権を握ることでもあるのだ。素晴らしい人が国君になるべきであろう。
そんな風に思いながら、士会は公子・雍が住む、屋敷にたどり着いた。すると屋敷の者が出てきた。
「どなた様でございましょう」
「晋に仕えております。私は士会と申す者です。公子様に晋の正卿・趙盾の命により、参りました」
「なんと、承知しました。どうぞ入ってくだされ」
彼がそう言うと、屋敷の者が彼を向かいれた。
「それではこちらでお待ち下さい。直ぐ様、主人が参りますので」
屋敷の者は士会を部屋に案内し、頭を下げてから公子・雍を呼びに行った。そして、少しして、男が入ってきた。
「汝が士会か」
「左様でございます。公子様」
士会の公子・雍の第一印象は、
(暗い……)
彼はそう感じた。だが国外に置かれ、一生を過ごすことになると思えば、暗くなるのもわからなくはない。
(この人にとって秦は良い地ではないようだな)
「して、正卿の命で参ったと伺ったが、どのような要件であろうか?」
「は、公子様は我が国の主公がお亡くなりになられたことをご存知でしょうか?」
「知っておる」
「それであれば主公の御子息が幼いこともご存知でしょう。本来であれば、太子足る御子息が即位なさいますが、我が国は天下の覇権を担う国でございます。幼君ではその責務を負うのは、酷でございます。そのため正卿・趙盾はこの事態を憂い、先君・文公の子の中で年長であられますあなた様を次の国君になさろうとなさっているのでございます」
「なんと……」
公子・雍は国君になると知り、体を震わす。
「何故、私なのだ。私の他にも居るであろう」
「あなた様が年長であるからでございます」
(弱々しい)
士会は今まで文公、襄公という堂々とした国君しか見たことが無いため、国君になろうとしている目の前の人物が一層、弱々しく見えた。
「私は何の才も無い。父や兄上のような国君にはなれぬ。他の者では駄目なのか」
(だが、この方は謙虚である)
傲慢な人が国君になるよりは、良いではないか。彼はそう思うようにした。
「公子様、最初から名君でいられる方など居られません。彼の聖人、賢人とて同じでございます。大切なのは国君と成られ、どのような政治を行い、努力なさるかでございます」
「だが……」
「公子様、堂々となさいませ。あなた様は国君となられるのですよ」
公子・雍の煮え切らない態度に思わず、士会はそう言ってしまった。
「は、失礼しました。私などが出過ぎた真似をしました。お許しを」
しばし、呆気に取られた公子・雍であったが、急に笑いだし、今度は士会が呆気に取られた。
「済まない。どうにも叱られたのは子供の頃、以来で可笑しくて、可笑しくて」
「いえ、臣下の分際で公子様を叱るなど……」
「良い、皆まで言うな」
士会の言葉を止めると彼は懐かしそうに目を細める。
「晋にいた頃は良く叱られたものだ。懐かしいものだ」
彼は士会の目を見る。
「これでも公子という身分であるから、ここにいるものは私を叱ることはない。だが、汝に叱られて、懐かしさと同時に何故か嬉しさもあった」
「何故でしょうか」
「父上、良く仰っていた。叱ってくれる者は大切にせよとな」
彼は士会に近づき、その手を取る。
「士会よ。私が即位した後も叱ってくれ、そして支えてくれないか」
士会は心が震えた。公子・雍は決して、文公や襄公には及ばないかもしれない。だが、善政を行える人であると彼は確信した。そして、そんな人物が自分の手を取って、支えてくれと言ってくれている。
彼は感動したのである。
「不才の身ですが、誠心誠意、お仕え致します」
士会は稽首した。
「ところで秦は私をすんなり、帰国を許すだろうか?」
「許すでしょう。公子様が帰国なされれば、晋と秦両国の関係を良好にすることができます」
「そうか……」
髭を撫でながら公子・雍は呟く。
「なるほどそれで私を選んだというわけでもあるのか。どうにも政治の道具にしているようで、正卿の趙盾とやらは好きにはなれんな」
「いえ、趙盾殿はそのようなことは思ってはおりますまい」
(確かにそういう見方もできるか……)
士会は言葉では否定しつつも、内心、公子・雍の言葉にも頷けた。
「まあ、良い。それでも良い。私は国君として努力しよう。そうであろう」
「左様でございます」
彼らは笑った。こうしてこの小さな主従は生まれた。




