狐射姑
趙盾が公子・雍を向かい入れようとする一方、狐射姑は不満を爆発させていた。
「おのれ、趙盾め、何様のつもりか……」
彼は手に取れるものを至るところに投げ捨てていく。
「狐射姑殿、落ち着かれよ」
一族の出である狐鞫居が止めに入る。
「落ち着いていられるか。このままでは趙盾が大きな顔をして政治を行っていくぞ。晋の政治はあの者の独裁によって衰退するだろう」
「左様ですな。ならば、こうなさっては如何ですか」
狐鞫居は彼に耳打ちする。
「なるほど、先手を打つのだな」
狐射姑はにやりと笑った。
趙盾は公子・雍を迎え入れるために先蔑と士会を秦に送った。
「会よ。責任のある仕事だ。努力せよ」
「はい、わかっています。兄上」
士会が秦へ出発する直前、彼の兄・士縠は弟の見送りに来ていた。
「では、行って参ります」
そう言って、士会は出発した。士縠は彼の言葉に頷き、見送る。これが兄弟の永遠の別れになるとは思いもしなかった。
こうして、秦へ使者を出した所に急報が入った。
「公子・楽がこちらに向かっているだと」
陽処父は書簡を持ちながら、両手を震わす。
「何を心配する必要があるのか?」
趙盾は首を傾げて言った。
「良くお考え下さい。今、諸国は晋の新たな国君は誰になるのかと見ているのです。公子・楽が先に入れば、彼を国君にするのだと思うことでしょう」
「なるほど」
急を要する事態であることを理解した趙盾だが、解決する術を彼はもってない。
「されど、どうする」
「密かに人を送り、殺すしかないでしょう」
「そこまでする必要があるのか?」
陽処父の意見に直ぐ様、納得することができない趙盾に対し、陽処父は彼に迫る。
「恐らく、公子・楽を招こうとしているのは狐射姑でしょう。公子・楽が彼らによって擁立されることになれば、政権を彼らが握り、我らを害そうとするでしょう。今は、急を要する事態なのです。迷ってはいられませんぞ」
ごくりと唾を飲んだ趙盾は彼の言葉に同意するように頷いた。
陳から来た公子・楽は趙盾らの手の者によって殺された。政争の道具にされ、哀れな人である。
「くそ、おのれ趙盾め」
「如何しますか」
「決まっていよう。やられたらやり返すまでよ」
九月、公子・楽を殺したことで油断していた陽処父は狐鞫居によって殺された。
「陽処父殿が殺されてしまった」
政治を行う上で、もっとも信頼していたと言って良い、陽処父が死んでしまったことに動揺する趙盾はもうひとりの信頼している人物である郤缺を呼び、相談した。
「私はどうするべきであろうか?」
(何故、相談する相手が私なのだろう)
自分の何が趙盾に気に入られたのかわからないと思いながらも、彼は思考し始めた。
元々、この事態を招いた一番の当事者は陽処父である。彼が趙盾を中軍の将にし、本来中軍の将であった狐射姑を佐にしたのが原因なのだ。
また、公子・楽を暗殺するというあり方も褒められたものではない。このような強権を用いれば、相手もそれ相応の手で打って出るのは予想できるはずなのだ。
余計な恨みを買うような真似をした陽処父の自業自得であり、趙盾側に問題はあった。しかし、その私怨による行為が国政での政争にまで発展させ、問題を大きくさせた狐射姑にも批はある。
(私怨での応酬がここまで大きくなった以上、残された選択肢は限られている)
「狐射姑に賛同する者は国にほとんどおらず、こちらには正義があります。これをもって、狐射姑一派を討ち滅ぼすべきです」
「良し、わかった」
十一月、趙盾は群臣らに狐射姑ら討伐を宣言、彼らを率いて狐射姑らを攻めた。
多勢に無勢、圧倒的数の差によって狐射姑は破れ、狐鞫居は殺された。
「狐射姑は逃げてしまった」
「どこに逃げたのでしょう」
肝心の狐射姑は殺せなかったかと郤缺は思いながら問いかける。
「狄だ」
「狄ですか……」
「狄に引き渡すよう使者を出すか?」
「いえ、狄は元々狐氏の一族がいた所、彼らとのつながりは強固です。そう簡単に渡さないでしょう。また、狄と事を構えることもお勧めしません」
「なるほど、良くわかった。取り敢えずほっとくとしよう」
趙盾は流石、政治を担っていただけにそういった計算ができる男である。
(陽処父の傀儡ではないということだ)
少し、安心していると趙盾は言った。
「狄にいる狐射姑の元に家族と財産を運ばせるとしよう」
(ほう、このようなことの出来る人であったか)
狐射姑は彼と対立し、権力を握ろうとした男である。そんな彼にこういったことを出来る人は中々いない。
少し関心していた彼も次の趙盾の発言には眉をひそめる。
「使者は臾駢にしよう」
「臾駢でございますか……」
「心配なさるな臾駢は何事もそつなくこなす男心配しなくとも宜しいでしょう」
「いや……そういうことでは……」
臾駢は夷で蒐を行った際、狐射姑に辱めを受けたことがある。そうんな人間を使者に出すのか、と彼は思ったのである。
もし、恨みを忘れず、何かして狄との戦端が開くことはあってはならないのだ。
趙盾という人はどこか人の感情に鈍い。そう考えながら郤缺は止めようとしたが、結局、臾駢が使者として出された。
夷での辱めを受けたことを恨んでいたのは臾駢に従っている者たちで、彼らは報復するために狐射姑の家族を殺すべきと主張した。それに対し、臾駢は言った。
「それはならない。『前志(詳細不明)』には『人に恵まれても人を怨まれても、その後嗣には関係がない。これが忠の道である』と書かれている。夫子(趙盾)が狐射姑に礼を施そうとしているだから、私が夫子の寵を利用して私怨に報いるのは間違いではないか。人の寵を利用して報復するのは非勇である。自らの怨みを減らすため逆に仇を増やすのは非知である。私情によって公事を害すのは非忠である。勇・知・忠の三者を棄ててしまえば、今後、夫子に仕えることができなくなる」
臾駢は狐射姑の家族や財産を守って国境まで運んだ。
それを聞き、彼が任務に私情を挟まない人であると理解し、ほっとした。
「はあ、大いに疲れるものだ」
しかしながら郤缺の苦労はこれ以降も続く……




