簫の音と共に天に昇る
紀元前621年
春、晋の襄公は中軍の将であった先且居とその佐であった趙衰が世を去ったため、夷(晋の地名)で蒐(狩猟。閲兵。軍事訓練)を行い、二軍を廃した。五軍から三軍に戻したのである。
狐射姑(狐偃の子。買季とも言う)が中軍の将となり、趙盾(趙衰の子)が佐に任命された。こうして軍が再編成されました。
この時、陽処父が温から晋に帰り、再編成の内容を知ると襄公に会い、改めて董で蒐を行わせた。中軍を再改編したのである。
陽処父は趙衰の推挙によって用いられたため、趙氏と深い関係にあった。そこで彼は趙盾を中軍の将に推して進言した。
「賢能を用いるのは国の利となります。趙盾を用いるべきです」
彼の政策が今後、通り易くしたいという考えもここにはある。
師でもある彼を信頼している襄公は趙盾を将にした。中軍の将は正卿として政治を行うため、ここから趙盾の国政が始まった。
彼はここまでほとんど政治経験がなかったが、経験の無さが良かったのかある意味、怖いもの知らずであった。彼は条例規定を作り、刑罰法令を定め、獄刑訴訟を整理し、逃亡する者を調査監督した。また、財物の出し入れには質(契約)を用い、政治の旧弊を除き、秩礼(等級制度)を正し、廃止された官職を恢復し、才能ある者を抜擢していくなど、様々な政治改革を一挙にやった。
政令が正されると、大傅(太傅)・陽処父と大師(太師)・賈佗に委ね、晋国内に施行させて常法としたのである。
このように周りの者たちが思った以上の結果を見せつけた趙盾であったが、どこか危うさも秘めていた。
陳と衛の関係がよかったため、魯の臧孫辰は陳と友好関係を結ぼうとした。
そこで夏、季孫行父に陳を聘問させ、妻を娶らせた。
彼は季友の孫で、後に三桓の中で最も、大きな権力を握る男である。
秦の穆公には四十人の子がいたと言われている。子沢山である。
穆公の大勢の子の中に、弄玉という娘がいたといわれている。彼女は簫の演奏が得意だった。
また、簫を得意とした蕭史もいた。彼が簫を奏でると孔雀や白鶴が庭に舞い降りたと言われるほど美しい音色を奏でるという。
弄玉は蕭史を気に入ったため、穆公は蕭史に弄玉を娶らせた。
蕭史は日々、弄玉に鳳鳴を教えました。
ある日、蕭史と共に楼に登って簫を吹き、鳳凰の音(声)を奏でました。すると鳳凰が感応して天から降りていき、後に二人はそろって鳳凰に乗って天に昇っていった。
その後、秦人は雍宮に鳳女祠を建てた。そこからしばしば簫の音色が聞こえてきたという。
それを悲しんだのか穆公は世を去った。
穆公は雍に埋葬され、百七十七人が殉葬され、秦の大夫で良臣として名を知られていた三人、奄息・仲行・鍼虎も殺された。
秦の人々は三人の死を悲しみ、『黄鳥(詩経・秦風)』の詩を作り、その魂を慰めようとした。
世の人々は言った。
「秦の穆公は領土を拡大し、東は強晋を服し、西は戎夷に覇を称えた。されど諸侯(中原)の盟主になれなかったのも当然であった。死して民を捨て、良臣に殉死させたのだから。古の聖王は死んでも遺徳を施して子孫の模範になり、百姓が哀れみ惜しむような善人や良臣を奪うことはなかった。詩に『人ここに亡くなりて、国いたく病みつかれる』とあるのは善き人がいないことを言っているのだ。どうしてこれを奪う真似をするのだろうか。古の王は、己の寿命の残り少なさを察知するや、あまねく賢人を招き、これに風教を示し、規定の品々を与え、名言を記録させ、法律を定めて、準則を公布させるなど一同に信頼をさせてから亡くなるものだ。皆、このようにしてきた。されど穆公は後世に残す、法が無ければ、良臣を死なせた。これでは人の上に立つのは難しいではないか」
人々は今後、秦に東進の機会がないと判断した。
彼の後を太子・罃が位を継ぐ。これを秦の康公と言う。
秋、魯の季孫行父が聘問のため晋に向かった。
晋に入る前に彼は使者を魯に送り、万一葬儀に遭遇した時にどうすればいいかを確認した。
そのことに疑問を覚えた従者が言った。
「葬礼の知識を求めて何の意味があるのでしょうか?」
彼は答えた。
「不虞(不測の事態)に備えるのは古の教えである。突然求めても得ることができなかったら本当の苦難に陥るものだ。あらかじめ求めても害はない」
彼は決して鈍い人ではない。晋に近づく内に何かしらの勘が働いたのかもしれない。
彼の勘は当たることになる。
八月、士会は兄・士縠に呼ばれ、兄の家にいた。
士会から見て、兄は充実しているように見えた。司空に任じられるなど兄は襄公に気に入れられているのである。
「兄上は、実に充実されているようですな」
「まあな、とてもやり甲斐があるよ」
楽しそうに兄が笑うのを眩しそうに士会は眺める。元々、士家はどちらかと言えば、法を守る家であり、文官の家柄なのである。
しかしながら士会はどちらかと言えば、矛をもって戦場を駆け巡る方が、良いと思っている。
(兄上も居られるし、私はそれで良い)
彼はそう思っている。
「大変です」
そこに大慌てで、何人かの臣下たちがやって来た。
「どうした。騒々しい」
「じ、実は、主公が……」
「主公がどうなさったのだ」
「お亡くなりになりました」
「何だと」
士縠と士会はとても驚いた。襄公には何ら、病気だとかという話しもなく。また、何より、襄公は若いのだ。死ぬにしても早すぎる。
「た、確か主公の御子息は……」
「まだ、産まれたばかりだ」
そう襄公の息子である夷皋は乳児である。
「幼君が立つのですか?」
士会が尋ねると士縠は答えた。
「本来であれば、長男が継ぐ者だ。だが、幼君では、天下の盟主でいるのは難しい」
晋は天下の盟主国であり、一大勢力なのだ。だが、幼君が立てば、それを保つのは難しい。
「ならば、誰か公子に継いでもらうのでしょうか?」
「可能性は高い」
士縠は頷くと、こうも言った。
「そして、次の国君を誰にするのか宰相たちが話し合っているのだろう」
(新たに立った趙盾殿はどのような公子を選ぶのだろう)
士会はそう思った。
晋の襄公の若すぎる死をきっかけに晋の文公が築き上げた晋の覇権は揺らぎ始めることになる。そして、士会の運命もまた、変容していくことになる。




