去りゆく者たち
十一月、魯の夫人・成風(魯の僖公の母)が死んだ。
彼女は魯の荘公の妾であり、身分は低かった。そのため彼女の息子は本来、国君となるはずはなかった。されど彼女は荘公亡き後の混乱を見据えて、季友に従うことで己と息子の命とその未来をも掴み取った。
この大博打を打った豪胆さと勇気と強かさはもっと称えてもいいはずである。
この年、秦の穆公は由余を従い、彼の謀を用いて戎王を討ち、十二国(または「十四国」)を併合し、千里の地を開いた。こうして秦は西戎に覇を称えることとなった。
周の襄王はこれを称えて、召公・過を送って穆公を祝賀し、金鼓を下賜した。
そのため穆公を春秋五覇の一人に数えることもある。されど穆公の悲しさは西戎において覇を称えたものの、東方(中原)では覇者になっていないことである。何故ならば、晋の存在が秦の東進を阻んでいるからである。
紀元前622年
かつて鄀は楚から離れて秦に附いていたが(紀元前635年)、また秦に背いて楚に附いた。
これに怒った秦が鄀を攻撃して都・商密を占領した。
鄀の人々は秦の民になることを良しとはせず、東南に移動して楚の属国になった。穆公は西戎の心は掴めても、彼らの心は掴めなかった。
他国の人間の心を掴むのはどの国でも難しいことである。
この国も例外ではない。六が楚に背いた。六は東夷の国である。(一度滅んではいるのだが、いつの間にか復国している)
秋、楚の穆王は楚の成大心と仲帰(字は子家)が兵を率いて六を滅ぼさせた。
穆王には何故、自分に背くのかということは考えない。
冬、楚の公子・燮を派遣し蓼を滅ぼした。この国も楚に従おうとしなかったからである。
魯の臧孫辰は六と蓼が滅ぼされたと聞き、嘆いた。
「皋陶(少昊の子孫。六の祖)と庭堅(顓頊の子孫。蓼の祖)の祭祀が突然途絶えてしまった。徳を建てなければ民の援けを得ることはできない。悲しいことだ」
どんな立派な先祖を持とうともその先祖の徳に背く行為を重ねれば、いつかは滅ぶものである。
晋の陽処父が衛を聘問し、帰国する時に甯(晋邑)を通った。その際、陽処父は甯嬴氏の客舎に宿泊した。
甯嬴は彼を見ると妻に言った。
「私は久しく君子を求めてきたが、今、やっと出会うことができた」
彼は陽処父に仕えることにしました。
しかし道中で陽処父と会話をした甯嬴は河内の温山で退き返し、家に帰宅した。
家を出てった時はあんなに嬉しそうだったのに、突然帰ってきた夫に疑問を覚えた妻が聞いた。
「あなたは求めていた人物と出会うことができたにも関わらず、なぜ従わないのですか。家を想って忘れられないのでしょうか?」
甯嬴は首を振って言う。
「彼は剛に過ぎる。『商書(尚書・洪範)』にはこうある『乱臣は剛にたより、高明な者は柔にたよる』と、夫子(陽処父)は(君子の性をもちながら)剛に頼っている。良い終わりを迎えることはできないだろう。天とは剛徳なものだが、(柔徳も備えているため)四季の秩序を乱すことをしない。人ならなおさらどちらかに偏ってはならないのだ。花が咲いても実らないようでは(花はできるが実はできない。一つに偏っているという意味)、怨みを集めて自身を守ることができなくなる。私は利がなく逆に難を受けるというようなことを避けるために彼から去ったのだ」
彼はため息をつく。
「人となりを知るには言葉を交わすことが大切なのだな。言葉を交わさずに外見だけで判断して、間違いを犯すところだった」
この頃、晋の趙衰(中軍の佐)、欒枝、先且居(中軍の将)、胥臣が死んだ。
趙衰は晋の文公と共に放浪し、彼を支え続けた名臣である。特に穆公との会見では、文公に礼を教え、穆公の言葉を逆手に取るということもした。
また、その性格は控えめで謙虚であり、そのあり方は多くの者に愛された。
胥臣は文公と共に放浪した臣下たちの中では、地味ではあるものの、文武どちらにも秀でた部分を持ち、文公の大いなる助けになった。
また、野に隠れた郤缺を見出し、彼を見出したことで晋に幸運をもたらした。
欒枝は文公が帰国する際、真っ先に彼を支持し、幸運を掴んだ。その手のひらを直ぐ様、帰るあり方は褒められた部分ではないものの、彼の決断力、強かさは晋に必要な力ではあった。
先且居、彼の死は大いに悲しむべきだろう。彼は同時期に世を去った者たちの中で若い人物である。晋の今後を担う人材であり、父・先軫譲りの軍事の才を有し、晋の強さを天下に示せる人材であった。
そのため彼の死はあまりにも大きかった。
多くの者が去る一方、新たに現れていく者たちが新たな歴史を作っていくことになる。




