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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第五章 天命下る

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昭穆

 魯の文公ぶんこうが晋に朝見しなかったため、晋は魯を攻撃した。文公は謝罪するため、晋に向かった。


 晋は大夫・陽処父ようしょほを送り、魯と盟を結ばせた。魯の国君が晋に行ったにも拘わらず、大夫を送ったのは、魯を辱めるためである。


 この時、送られた陽処父は晋の襄公じょうこうの教育係であり、彼が裏で権力を握っている。そのためそのように指示を出したのは彼だろう。


 六月、魯の公孫敖こうそんごうは鄭の垂隴で宋の成公せいこう、陳の共公きょうこう、鄭の穆公ぼくこうおよび晋の司空・士縠しこくと盟を結んだ。


 この時、共公は衛のために晋との講和を求め、歓心を得るために衛の孔達こうたつを捕え、晋に献上した。


 彼だけの責任にしたのである。


 魯の大夫・夏父弗忌かほふっきが宗伯(祭祀を掌る官)となり、魯の僖公きこうを尊重してこう言った。


「私には新鬼(新霊。僖公)が大きく見え、旧鬼(魯の閔公びんこう)が小さく見えた。大が先にあり、小が後に置かれるのは順(順序・秩序)というもの。聖賢を上にするのは明(明智)である。明と順は礼である」


 彼はそういうと祭祀における釐公の地位を閔公の上に置くことにした。閔公は僖公の兄である。


 夏父弗忌の決定に対して宗廟の官員が反対した。


「これは昭穆に反することです」


 昭穆というのは宗廟の序列のこと。先祖の神主(位牌)を納める宗廟は、中央に始祖(太廟)が置かれ、その前に歴代の先祖の廟が向き合って並べられている。


 始祖から見て左に並んだ廟を「昭」、右に並んだ廟を「穆」といい。最も単純な配置では、まず始祖が中心におり、二世が「昭」として左に、三世が「穆」として右に置かれ、四世は再び「昭」となって左、五世は「穆」となって右に置かれる。同じように六世は「昭」、七世は「穆」とこのようになる。


 但し当時の宗廟制度では、天子は七廟、諸侯は五廟、大夫は三廟等と廟の数が決まっていた。そのため世代が増えれば増えるほど廟が足りなくなるという事態が起きる。そこで通常は特に功績が大きい先祖や自分から近い先祖が廟に入れられるようになっていた。


 また、「昭」と「穆」には世代間の上下関係を示す重要な意味があり、同列の「昭」と「穆」では「昭」が上になる。


 さて、ここで魯の文公を例にすると、文公の前の国君は閔公と僖公である。つまり僖公は閔公が国君だった時、臣下として仕え、しかも閔公の弟だったため、宗廟制度に則ると閔公が上(昭)、釐公が下(穆)になるはずなのだ。


 しかし夏父弗忌は僖公の功績を称え、また僖公の子である文公の歓心を得るために、僖公を「昭」に、閔公を「穆」にするように主張したのである。彼はこのような場に政治を持ち込んだのだ。


 それに官員たちは猛烈に抗議してた。


 この官員たちの反対に対して夏父弗忌は言った。


「私は宗伯として明徳を昭とし、それに劣る者を穆としているのだ。昭穆に固定された順序などない」


 官員たちが激高し、言った。


「宗廟に昭穆があるのは世代の長幼に基づいて並べることで親疏の関係を整えるのです。祀とは孝道を明らかにするためにあり、人々が皇祖(太祖)を敬うのは、昭孝(孝道を明らかにすること)の極み故です。工史(楽師・太史)が世代の前後序列を記録し、宗祝(宗伯・太祝)が昭穆を記録するのは、それぞれの関係が礼を越えることを恐れるためです」


 この時代の楽師・太史・宗伯・太祝といった職に就いていた者たち皆、誇り高い信念をもって職務を行っていた。そのため夏父弗忌が己の利益のために職務に反した行いをしようとしていることが許せなかった。


「此度、明徳を先において祖(前の代)を後ろにしようとしていますが、相応しくありません。玄王げんおう(商王朝の祖・けつ)や主癸しゅはつの功績はとうおう(商王朝初代王)に及ばず、しょく(周王朝の祖)や王季おうきの功績は周の文王ぶんおう武王ぶおうに及びませんでした。されど商も周も蒸(冬の祭祀)で湯王や文王・武王を前に置くことはありませんでした。これは礼を越えてはならないからです。魯は商・周に及ばないにも拘わらず、その常規を変えようとしています。相応しくありません」


 官員の中には涙を流す者もいる。魯は礼儀の国、周王朝の権威が失墜し、周礼は衰退しようとしている中、それを守り続けている国が魯であり、それが誇りでもあったからである。


 されど彼らの諫言は聞き入れられることはなかった。


「魯はまたもや礼を汚し、その誇りを失った」


 誰かがそう呟いた。彼らの怒り、悲しみに対し、史書は無言である。


 八月、大廟で僖公の吉禘を行いました。


 展禽は言った。


「夏父弗忌は禍に襲われるだろう。宗有司(宗廟の官員)の言は順(正道)である。僖公は明徳というには及ばない。順に反するのは不祥だ。逆(礼に外れたこと)によって民を訓導するのも不祥だ。神の班(秩序)を変えるのも不祥だ。明徳ではない神主を上に置くことも不祥だ。鬼道に反することが二つあり、人道に反することも二つある。禍が起きないはずがない」


 侍者が言いました。


「禍が起きるとしたら、それは刑戮に遭うのでしょうか。それとも疫病によって夭折するのでしょうか?」


 展禽てんきんは首を振り、答えた。


「それはわからない。しかしたとえ血気が強固で老寿を得たとしても、死んでから禍が訪れるだろう」


 夏父弗忌の死後、埋葬しようとした棺から突然、火が出て煙が天に達したと言われている。


 この件に関して、孔子こうしも後に意見を述べている。だが、彼は夏父弗忌を非難するのではなく。


臧孫辰ぞうそんしんは三つの不仁と三つの不知があった」


 臧孫辰を非難した。彼の言う不仁とは展禽の地位が低いままだったこと、六関を設けて税をとったこと、妾に蓆を織って売らせ、民と利を競ったこと。


 三つの不知は虚器を設けたこと、祭祀の秩序が逆になるのを許したこと、爰居(海鳥)を祭ったこと。


 三つの不知のうち、先ず、虚器というのは、祭祀で用いる大亀や、天子の廟のような豪華な装飾のことである。臧孫辰は自分の立場をわきまえず、祭祀用の亀を飼ったり、贅沢な住居に住んでいたというのである。




 祭祀の秩序を逆にしたというのは僖公の吉禘を指す。つまり執政を行う臧孫辰が祭祀の乱れを許したとしたのだ。


 爰居(海鳥)を祭ったことというのは、ある日、「爰居」という海鳥が魯に飛んで来て、東門の外に三日間留まったことがあった。臧孫辰はこれを神鳥だと思い、国人に祭らせたのだ。


 これを鼻で笑い、展禽が非難した。その時の言葉は『国語』に乗っているが、長すぎるため省略する。つまり彼は海鳥が来た理由を深く考えず、無暗に祭祀を国民に行われるのは可笑しいという内容である。


 また、この時、彼は海鳥が来た理由を天候不順ではないかと推測しており、彼の言う通り、この年、海で頻繁に大風が吹いたり、冬になっても暖かい日が続いた。


 海鳥は自然の異変を察知して魯国に逃げて来たのだった。


 臧孫辰は彼の言を聞き、誤りを悟ると言った。


「確かに私の誤りであった。彼の言は記録して教訓にするべきだ」


 展禽の言葉は三筴(三部の簡書。司馬・司徒・司空の三卿がそれぞれ一部を保管した)に書き記された。


 さて、話を戻すが、本当にこの件に関して、臧孫辰は許したのだろうか?


 もしかしたら、夏父弗忌が独断で行ったのではないのか。祭祀を行う際に宰相である臧孫辰に話を通していないのは可笑しいため、考えすぎだろうか?


 もし、この祭祀をこのように行うと事前に決まっていたのであれば、展禽は行われた後に非難をしたのか?

 彼ならば行われる前に讒言するのではないのか?


 少なくとも、孔子が臧孫辰だけを非難するのは少し、違うように思われる。彼は自分の思想を展開する上で彼を利用しただけではないのか。




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