狼瞫
紀元前625年
殽の役の後、晋から帰国した秦軍の将帥・孟明視らに対し、秦の大夫や秦の穆公の近臣らは口々に彼らを非難していた。
「敗戦は孟明視の罪です。処刑なさるべし」
しかし穆公は首を縦に振らず、
「敗戦は孤(私)の罪だ。周の芮良夫(周の厲王の卿士)の詩(詩経・大雅・桑柔)にこうある『大風が吹き荒れるが如く、強欲が自らの善を損なう。貪欲な者は人の言葉に口をはさみ、『詩』『書』の教えを見れば眠くなる。善を用いることなく、逆に自らを誤らせる』と、敗戦は孤の強欲さが原因であり、この詩は孤のことを歌っている。孤の強欲さが夫子(孟明視)に禍をもたらしたのだ。夫子に罪はない」
穆公は変わることなく孟明視を信任し続けた。
孟明視が軍を率い、晋を攻めた。殽の役の報復のためである。
二月、晋の襄公がこれを防ぐため兵を率いた。
先且居が中軍を将に、趙衰が佐となる。王官無地(王官は氏)が襄公の車を御し、狐鞫居(続簡伯。続は食邑名。簡伯は字。狐偃の一族の出)が車右になった。
晋と秦が彭衙(秦邑)で激突した。
孟明視率いる秦軍の士気は高く、晋軍はこれに苦戦を強いられた。
「思ってたより、秦軍が強いですな兄上」
士会が兄・士縠に言う。
「ああ、前よりも秦軍にやる気がある。油断するなよ会、ああいう軍は強いぞ」
彼は兄の言葉に頷きながら、ふと、ある男を見た。
秦軍をにらみつける男がいた。彼の名は狼瞫という。
彼は殽の戦いで梁弘が襄公の車を御し、萊駒が車右を務めていた時である。
その戦いの翌日、襄公は秦の捕虜を縛り、萊駒を送って戈で斬らせようとした。しかし捕虜が大喝すると、萊駒は驚いて戈を落とした。それを見ていた狼瞫が戈をとって捕虜を斬り、萊駒を連れて襄公の元に出向いた。
襄公は彼を褒めて車右に任命した。
しかし箕の戦いでは中軍の将・先軫が狼瞫の職を解いて続簡伯を車右にした。恐らく、狼瞫の身分が低いため、国君の車右に相応しくないと先軫は考えたのかもしれない。
狼瞫が怒り、戦で大いに働き死ぬことで見返してやろうと思っていたが、箕の戦いで先軫が死んでしまった。
彼の友人が言った。
「あなたは死ぬべきではないか」
「私は死に場所を得なかったため死ねなかったのだ」
「それならば私が汝と難をなそうではないか」
彼も今の現状に不満を持っていたため、狼瞫を誘ったのであろう。しかし、狼瞫はこれを断った。
『周志(逸周書・大匡篇)』にはこうある『勇なれど上を害せば死後、明堂(先祖を祭る場所)に登ることができない』死んでも不義ならば勇とはいえない。国のために働くのを勇というのだ。私は勇によって車右を求めたのだ。無勇とされてしまえば、車右の職を解かれたことが正当だとみなされてしまう。上の者(先軫)が私を理解していなかったというが、私を廃したことが正当だとみなされたら、彼は私を理解していたことになる。汝は暫く待て」
彭衙の戦いが始まり、狼瞫は敵を見る。
(我が死に場所はここか)
嬉しそうに笑うと己の部衆を率いて秦軍に突撃を掛けた。
(見よ、これぞ狼瞫の死に様よ)
狼瞫は暴れに暴れ、戦死した。その後、彼の突撃に晋軍が続き、秦軍はこれに耐え切れず、遂に後退した。狼瞫は晋に大勝をもたらしたのであった。
「狼瞫殿、このような死に方しかなかったのか……」
士会は彼の死を悲しんだ。
「狼瞫は君子と言えよう。彼は怒りを抱きながらも乱を起こさず、突撃した。彼は君子足りうるために戦死した」
士縠はそう言った。
彭衙の戦い後、晋の人々は秦軍を嘲笑った。
「これぞ『拝賜の師(恩賜を拝謝する軍)』だ」
殽の戦いで敗れた孟明視が『三年後、晋君の恩賜を感謝に来る(報復に来る)』と言ったことを風刺している。
再び、大敗した孟明視は今度こそ、処罰されると思われたが、穆公は敗戦した孟明視の職を解かず、今まで通り重用した。孟明視はこれに答えようと更に民を重視して国政を修めた。
趙衰が諸大夫に言った。
「次回、秦軍が来た時は、道を開くべきだろう。恐懼して徳を増した相手には抵抗できない。『詩(詩経・大雅・文王)』にもこうある『汝の祖先を想い、その徳を修め、明らかにせん』孟明はこの詩を想い、徳を大事にして怠らない。これには対抗できない」
あの穆公が孟明視を処罰することなく、彼を重用し続け、孟明視は穆公の期待に答えんとしている。穆公は東進した時のように自らが前に出ると失敗するが、百里奚を全面的に信頼し、国を広げたように部下を信頼し後ろでどんと構えている方が成功するという人物なのだ。
今、孟明視を信頼し、任せている。このような状態の秦は侮れない。彼は良く知っている。




