大事を成すことはできますか
紀元前626年
周の襄王が内史・叔服を魯に送り、魯の僖公の葬儀に参加させた。
魯の公孫敖(慶父の子。孟孫氏)は彼に人相を看る能力があると聞き、二人の子を会わせることにした。
叔服は二人を見るとこう言った。
「穀はあなたの代わりに祭祀を行うことになりましょう。(孟孫氏を継ぐという意味)難はあなたの葬儀を行うことになるでしょう。穀は下が豊かです。子孫は魯で大きくなります」
四月、魯が僖公を埋葬した。
その後、襄王が毛伯・衛を魯に送り、文公に命を与えた。文公が正式に諸侯に認められたのである。
魯の叔孫得臣が答礼のため周都に向かった。
晋の文公の末年、諸侯が晋に朝見したが、衛の成公は朝見せず、孔達に命じて鄭の緜、訾、匡を攻撃させた。
文公が死に、晋の襄公が小祥の祭祀を終わらせると、晋は諸侯に衛討伐を宣言した。
因みに小祥は葬礼の一つで、父母の死後十三カ月目に行われる。
衛に向かった晋軍が南陽に至ると、先且居が襄公に進言した。
「他者の誤り(成公が文公に朝見しなかったこと)にならえば、禍を招きます。主公は王に朝見するべきです。私が軍を指揮します」
襄公は彼の言葉に頷くと、温で襄王に朝見し、先且居と胥臣が衛に進軍した。
五月、晋軍は衛の戚を包囲した。戚を守る孫級は晋軍を見て、彼は国に憤った。
「このような大軍に我らだけでどうにかなると思っているのか」
援軍を出さない、国に憤りながらも彼は戚を守るため戦った。
しかし、一か月後、孫級は捕えられ、晋軍が戚を占領した。
これに対し、碌に援軍も出さずに衛が何をしていたかというと晋に攻撃されていることを陳に伝えていた。
これを受け、陳の共公にこう言った。
「晋に反撃しなさい。その間に我が国が晋との講和を調停する故」
何故、戦を行うことで講和がなるのだろうと衛は疑問に思いながらもこれに従い、孔達に晋を攻撃させた。
秋、晋が衛から戚を占領したため、諸侯と国境を定めた。魯の公孫敖も会に参加し、戚で襄公に会った。
以前、楚の成王が商臣を太子に立てようとした時、令尹・子上が諌めた。
「王はまだ老いておられず、しかも多数の寵妃がいます。太子を立てながら後日、廃することになれば、乱を招きます。楚は今まで、年少者を太子に立てていきました。そもそも商臣は蜂のような目をもち、豺狼のような声をした残忍な方です。太子に立ててはなりません」
されど成王は諫言を聞かず、商臣を太子に立てた。
後にこれを聞いた商臣は子上を憎み、死に追いやったのである。
その後、成王は王子・職(成王の庶弟)を後継者に立てたいと思うようになった。図らずも子上の言うとおりになった。
「老害が、馬鹿な考えを」
それを聞いた太子・商臣は吐き捨てるように父・成王を罵りながら師・潘崇に尋ねる。
「どうすれば誠かどうか王の考えを確認できるだろうか」
潘崇は激情の人の多い南方の人の中で数段、人としての温度が低い。
「江羋様を宴に招き、わざと不敬な態度をとればわかるかと」
江羋は江国に嫁いだ成王の妹である。彼女と成王は仲が良い。
商臣は彼の言に従い、江羋を宴に誘ってわざと不遜な態度をとって見た。すると江羋が怒り、商臣を罵った。
「役夫(賤しい者)め、王が汝を殺して職を立てようとするのは当然のことだ」
その後も罵声を浴びせる彼女を尻目に商臣はその場を退出すると潘崇に忌々しいそうに言った。
「王が私を廃そうというのは本当だ」
「左様ですか……」
潘崇は静かに呟き、思考した。しばらくして言った。
「王子・職に仕えることができますか?」
「できるわけがない」
「では、国を去ることができますか?」
「何故、この私がそのようなことをしなければならないのだ。できないに決まっておろう」
「ならば、大事を成すことはできますか?」
彼の言葉に商臣はにやりと笑うと答えた。
「できる」
十月、商臣が宮甲(太子宮の兵)を率い、成王を包囲した。
突然の事態に動揺しながらも、成王はこの状況の脱却を考え、『死ぬ前に熊蹯(熊掌)を食べたい』と言った。熊蹯の料理は時間がかかるので、時間稼ぎの意味がある。
しかし商臣はこれを見抜いていた。
「馬鹿が、さっさとくたばれ」
成王はもはや、死ぬしかないと考え、首を吊って死んだ。
こうして商臣が即位した。これを楚の穆王という。
穆王は成王の諡号を「霊」にしようとしたが、死体が瞑目しないため「成」に改めた。すると成王はやっと瞑目した。
「霊」は国を乱した国君に与えられる悪諡で、「成」は国を安定させた国君に与えられる美諡である。
「死んでも私の手を煩わせるとは……糞が」
穆王はそう吐き捨てた。彼の父への憎しみはそうとうな物であった。
楚の成王は楚を強国に押し上げた名君であり、周辺諸国を滅ぼし、中原諸国を恐れさせ、楚と結ぶ国も出てきた。
それほどの強さがありながらも晋の文公に対する態度など天を恐れ、己を律することもできた。晋と覇権を掛けた戦は敗れたとはいえ、楚は大国として南方で君臨し続けることができたのはそれ故である。
されど大国の主としての傲慢さを見せる時も多く、臣下を抑えることができず、勝手な行動をさせてしまうなど欠点や、最後の最後で後継者選びにおいて迷いを見せ、最後は己の息子に攻められ死ぬという非業の死を遂げてしまったことはとても残念である。
穆王は太子だった時の財物や僕妾を全て潘崇に与え、大師(太師)に任命して環列之尹(宮廷を警護する官)を任せた。
冷酷非道を絵に書いたような男だが、恩義を感じる部分は持ち合わしているようである。




