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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第五章 天命下る

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箕の戦い

 

 魯の僖公きこうが邾を攻め、訾婁を取った。升陘の役(紀元前638年)の報復である。


「あの時の恨みを晴らすことができた」


 僖公は臧孫辰ぞうそんしんにカラカラと笑いながら言った。


「無闇に軍は動かさぬ方が宜しいと思いますが」


「わかっている。それでもやっておきたかったのだ」


 彼は咳を一つ、した。


 秋、邾が備えをしなかったため、僖公は襄仲じょうちゅう(公子・すい)に命じて再び邾を攻めさせた。


 


 晋の襄公じょうこうの喪に乗じて狄が斉を侵した。更に白狄(狄の一種。隗姓とも釐姓とも姮姓と言われている)が晋を攻めて箕にまで至った。


 八月、この事態を憂いた襄公は軍を率いて、白狄と対峙した。


「兄上、この古い車をそろそろ買い換えましょう。いつ壊れるかわかりませぬ」


 士会しかいは自家の車に兄・士縠しこくと共に乗りながら言った。


「わかっている。だが、これはまだまだ大丈夫だ」


「そうでしょうか?」


 そんな会話をしていると、彼らの前を先の旗を付けた車が横切った。


先軫せんしん様だな」


 二人は先軫に向かって、拝礼する。そんな彼らを尻目に車は去っていった。


「兄上、兄上、何だか先軫様の顔色が悪くありませんか?」


「確かにな、少し調子が悪そうだったな」


 先軫の顔は青ざめていた。だが、それ以上に、


(それでも、透き通るほど綺麗な顔もなさっていた)


 士会はそのことが心の中でひっかり覚えていた。


(何事もなければ良いのだが……)


 彼の予感はあたることになる。















 晋軍と白狄は箕で対峙した。


 戦鼓が鳴らされ、戦いが始まると白狄の軍勢を見ながら、先軫が言った。


「私は主君の前で横暴な振る舞いをしたが、誅されることはなかった。だが、罪を犯した以上、己で罰を受けなければならない」


 人が死ぬ時の表情とはこういう表情なのだろうか。彼の顔は透き通るほど綺麗で、迷いなどなかった。


 先軫は車を降り、冑を脱ぐと、剣を抜いてそのまま白狄軍に突撃した。


「あれは……先軫様。何をなさっているのだ」


 士会は少し離れた所から彼が突撃するのを見て、驚いた。しかも彼は冑を脱いでおり、無防備である。


「兄上、早く、早く先軫様をお助けしなければ」


「わかっている。だが、目の前の敵が邪魔で……」


「あっ」


 そうこうしている内に、先軫の首が飛んだ。


 彼は晋の文公ぶんこうと共に諸国を放浪し、苦楽を共にして文公を支えた功臣である。帰国後は大抜擢を受け軍の元帥に選ばれるとその才能を開花させ、楚との戦いにおいて勝利をもたらせ、天下に晋の実力を轟かせた。


 文公が去った後も軍を率いて秦との戦いに勝利したが、襄公の甘さによって、その功績を無下にされたため、元々の気性故、襄公に無礼を働いた。


 そのことで処罰されると思っていたが、襄公という人は優しく、己のせいであると理解を示すことのできる人であった。


 だが、そのことが先軫を追い詰める結果になってしまった。その結果、彼は自らを罰するという形で戦死してしまったのである。


 彼の死ははっきり言えば、自己満足に等しい。だが、そういう気性を襄公が察しきれず、罰することをしなかったのは襄公にも批がある。


 人に賞を与える難しさと同じぐらい罰することも難しいということであろう。














「先軫が戦死しただと」


 襄公は報告を聞き、愕然とした。


 また、先軫という軍の最高責任者の死は軍に混乱をもたらした。これに白狄が付け込み始めた。


 晋軍が押される中、先軫の死を目の前で見た士会は白狄が先軫の遺体を回収しようとするのを見て、車から降り、彼らに襲いかかった。


「会、無茶をするな」


「されど、先軫様のご遺体を敵に渡すわけにはいきません」


 士会は矛を振るい、敵をなぎ払っていく。そんな状況を遠くから眺めていた男がいた。


「まさか、軍の元帥が戦死するとはな……」


 男は顎を撫でながら、どう行動するか思案した。男の身体をよく見ると体中に傷跡が見える。男の名は郤缺げきけつ。かつて父・郤芮げきぜいと共に文公を殺そうとした男である。


 何故、彼がここにいるかと言うと数年前、胥臣しょしんが冀の地を通った時のことである。


 たまたま男が田を耕している姿を見た。その妻らしき女性が食事を運び、恭しく夫に渡していた。彼らの恭敬な姿はまるで賓客を遇するようで礼儀正しいものであった。


(奇妙な夫婦がいるものだ)


 その姿は普通、野人が行う姿ではないのだ。そのため興味を覚えた彼は男に近づいた。男に近づいて驚いた。そうこの男こそ郤缺だったのである。


「まさか、汝がこんなところにいるとはな。他国に逃れていると思っていた」


「どうなさいましか。晋君に突き出しますか?」


 堂々と郤缺は言った。その豪胆さに舌を巻きつつ、彼は訪ねた。


「家臣たちもこの辺におるのか?」


 されどその質問に彼は答えようとしない。


「良い、わかった。汝が家臣思いであるとな」


 胥臣は背を向けると続けて、言う。


「付いて参れ」


 その言葉に郤缺は身構える。


「勘違いするな、私は汝を主公に推薦しに参るのよ」


「何故……」


「良いから来い」


 郤缺の疑問に答えず、彼は歩き出した。郤缺は黙ってその後を追った。


 二人は共に帰国し、胥臣は宮中にいる文公に


「私は賢人を得ることができました」


 と言い、郤缺を紹介した。


 それを聞いた文公は顔を歪めた。彼の父に殺されそうになったのである。感情的には彼を好意的には見れない。


「なぜあの者が賢人だと分かるのだ?」


 胥臣は答える。


「敬とは徳の集合体であり、敬があれば必ず徳があり、徳があれば民を治めることができます。また、門を出たら賓客のように礼儀正しく、事を行う時は祭祀のように厳かであること、これが仁の準則です。故に主公は彼を用いるべきなのです」


「あの者の父は罪を犯したが、用いても問題ないだろうか?」


「彼は国家の良才です。前悪にこだわるべきではありません。昔、しゅんこんを罰して放逐しました、されどその子のを推挙しました。管仲かんちゅうは斉の桓公かんこうを害そうとされましたが、相に任命して成功しました」


 舜は古の名君であり、鯀は彼の政敵であった。しかし、治水を行う上で禹、後に舜の後を継いだ夏王朝の始祖を登用した。


 管仲は言わずもがなである。


 胥臣は続ける。


「『康誥(尚書)』にこうあります『父が慈しまなければ子が敬うことはない、兄が友愛でなければ弟は恭順にならない。このような場合は父子も兄弟も互いに関係することはないのだ』また『詩経(邶風・谷風)』はこうあります『蕪を採れ。大根を採れ。根だからといって棄ててはならない』主公はその節(長所)を選んで用いればいいのです」


 文公は郤缺を引見し、その才覚を認め、下軍大夫に任命した。

















 そういった経緯を経て、彼はここにいる。


「どうするべきか……」


「主よ。直ぐにあの若者を助けに参りましょう」


 家臣の一人が進言する。だが、直ぐに彼は頷かなかった。彼は反乱を起こした一族の出なのだ。出過ぎた真似をすれば、責められる。そのため、ここまで大人しくしていた。


「我らは武門・郤家一門でございます。あの若者を助けなければ、その名を泥で汚すことになります」


(武門か……)


 元々、郤家は郤豹げきひょうが武をもって働いたことで家は高貴を得たのだ。


「そうだな」


 彼は頷くと指先を白狄の中心部に向けた。


「だが、若者をそのまま、助けても意味は無い。彼の者たちへと突撃を仕掛け、ここで軍全体を助けることにしようではないか」


 彼の強気の言葉に家臣たちは矛を上げる。


「やりましょう」


「ここで郤家一問の実力を見せつけましょう」


 そんな彼らに頷くと郤缺は剣を抜き、叫んだ。


「良し、突撃ぃ」


「応」


 郤缺率いる一門衆は白狄軍に突撃した。


 白狄は突然の突撃に動揺があったのも事実だが、武門を名乗るだけ、郤家一門は強かった。彼らは白狄の兵を蹴散らしながら進み、遂には白狄君(白狄の君主)を捕らえた。


「白狄君、捕らえたり」


 この声は晋軍全体に伝わった。混乱する軍を必死にまとめていた上軍の将・先且居せんしょきょは軍をまとめ、白狄に一斉に攻めかかった。


 晋軍の逆襲に白狄は遂に退いた。晋軍の勝利であった。


 無我夢中で矛を振るい、先軫の遺体を守っていた士会はいつの間にか戦が終わっていたことに呆然としていた。


「会、なんという無茶をするのだ」


 怒りを表わにする士穀に士会は必死に謝る。


「心配をかけました。申し訳ありません」


 そこに郤缺が車に乗って、近づいてきた。


 二人が拝礼するのを尻目に郤缺は先軫の遺体を見る。


(まるで生きているようだな)


 密かに不気味に思いながら、彼は二人を見た。


「大義であった。先軫殿の遺体は我らが引き取る。心配するな汝らの活躍は主公にちゃんと報告しよう」


「感謝致します」


 二人は拝礼した。それに郤缺は頷くと先軫の遺体を回収し、その場を立ち去った。これが士会と郤缺の出会いである。


 後に二人で晋の国政に携わることはこの時、誰も知らない。



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