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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第五章 天命下る

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晋の文公

遅くなりました

 十二月、狄が衛を包囲した。狄はかつて衛を滅亡に追い込んだことのある仇だが、衛の成公せいこうの代で衛の兵は弱くなっていた。


 狄の攻撃に衛都である楚丘では耐え切れないと判断し、楚丘から帝丘に遷ることにした。成公が卜いを行うと「三百年」と出た。


 それで安心して移したが成公が夢で康叔こうしゅく(衛の祖)に会った。


 康叔が彼に言った。


しょう(夏帝・けいの孫。中康ちゅうこうの子。帝丘に住んでいた)が私の祭祀を奪おうとしている」


 成公は相に康叔の祭祀を奪わせないために、相の祭祀を行うことにした。すると甯兪ねいゆが反対した。


「鬼神は同族の祭祀でなければ、お供え物を受けないものです。杞と鄫はなぜ祭祀をしないのでしょうか(両国は夏の子孫なのだが、相の祭祀をしていない。そのため同族ではない衛が祀る必要はない、という意味である)。相は祀られなくなって久しくなりますが、これは衛の罪ではないのです。周の成王せいおうと周公・たんが定めた祭祀を変えてはなりません。相の祀に関する命を撤回なさいませ」


 成公は命令を撤回した。


 鄭の大夫・洩駕せつがは以前から公子・を嫌い、鄭の文公ぶんこうも彼を嫌っていた。


 しかしながら洩駕とはこれまた、懐かしい名が出てきた。彼は繻葛の戦いの頃からいるため、百歳近いか以上のはずである。


 二人に嫌われた公子・瑕は楚に奔った。後に彼は楚軍と共に鄭に戻ってくることになる。















 紀元前628年


 春、楚が闘章とうしょうを晋に派遣し、和平を請うた。


 晋は陽処父ようしょほを答礼の使者として送った。これにより、両国和解がなったのである。


 この時、答礼の使者となった陽処父は晋の文公ぶんこうの子、太子・驩の傅(教育係)に任命されている男である。


 彼を息子に付けるに当たって、文公は胥臣しょしんに相談したことがある。


「私は陽処父を讙の傅に任命して教育させたいと思うが、上手くいくだろうか?」


 胥臣が答えた。


「それは太子しだいでしょう。蘧蒢(体を曲げることができない障害)の者に体を屈めさせることはできず、戚施(ひどい猫背)の者に空を仰ぎ見させることはできません。僬僥(伝説上の小人の国。ここでは極端に小柄な人)に重い物を持ち挙げさせることはできず、侏儒(背が低い人)に物を高く待ち上げさせることはできません。矇瞍(目が見えない人)に物を見せることはできず、嚚瘖(声を出せない人)に話をさせることはできません。聾聵(耳が聞こえない人)に音を聞かせることできず、童昏(無知蒙昧の者)に謀をさせることはできません。学ぶ者の本質が優れていて、しかも賢者が導けば、必ず成果があるでしょう。されど学ぶ者の本質が邪悪であれば、教育しても身につけることができず、善良にすることもできません。昔、大任たいじんは周の文王ぶんおうを妊娠しても体が変わらず、豕牢(厠)で小便をした時に文王を産みましたが、全く苦痛がなかったといいます。文王は胎児だった時も母の負担にならず、傅に苦労をかけることもなく、師を煩わせることもなく、王(父・王季おうき)を怒らせることもなく、二虢(文王の弟・虢仲かくちゅう虢叔かくしゅく)を友愛し、二蔡(文王の子・管叔かんしゅく蔡叔さいしゅく)を恵慈し、自ら大姒たいじ(文王の妻)の手本となり、諸弟と親しみました。『詩経(大雅・思斉)』にこうあります『己の妻に善を教え、兄弟にそれを及ぼし、家と国をうまく治めた』こうして四方の賢良を用いることができたのです。即位してからは『八虞(周八士。八人の虞官。虞官は山沢を管理する官のことで伯達はくたつ伯括はくかつ仲突ちゅうとつ仲忽ちゅうこつ叔夜しゅくや叔夏しゅくか季隨きずい季騧ききょう)』に意見を求め、『二虢』と相談し、閎夭びんよう南宮适なんきゅうかつと謀り、蔡公さいこう原公げんこう辛甲しんしん尹佚いんしつ(皆、太史)を訪ね、周公・たん・召公・せき・畢公・こうを重んじ、百神を安寧にし、万民を安楽にしました。故に『詩経(大雅・思斉)』にこうあります『先公を敬って神霊が怨むことがない』このような文王の業績は、教育だけによるものではありません(本質が優れていたのです)」


 文公が憂いた表情で


「それでは教育とは無益なのか」


 胥臣は首を振った。


「文というのは本質を更に美しくするためにあるのです。人は生まれたら学問をしなければなりません。学ばなければ正道に入ることができないからです」


「それでは八疾(前述の八種類の短所)の者はどうすれば良いのだ」


「官民がその長所を使えばいいのです。戚施は体を曲げて鐘を敲くことができ、蘧蒢は体を真っ直ぐにしたまま玉磬を持たせることができます。侏儒は矛戟を持たせ雑技をさせることができ、矇瞍は声を修めさせる(楽器を演奏させる)ことができます。聾聵は火を管理させることができます。童昏、嚚瘖、僬僥は官師にとっては役に立ちませんが、辺境に送って開拓を命じることができます。教育とは内在する能質(能力・本質)によって長所を育てるもの。川の源を海に導いて流れを大きくするのと同じことなのです」


 文公はその通りだと頷き、陽処父を驩の傅に任命したのであった。














 四月、鄭の文公ぶんこうが世を去った。


 彼は斉や楚、晋の間を上手く渡りながら、国を保ち続けた人物である。ある意味、どっちつかずの狡さがあったものの、国を守るため行った努力は認めるべきであろう。


 彼の周りには良臣も多く、彼らに対しては優しい面を見せることもあった。しかし、彼は実の息子たちにだけには殺意を向け、殺害又は、追放などしたことは褒められた行為ではない。


 彼の後を継いだのは一昨年、太子となった公子・蘭である。これを鄭の穆公ぼくこうという。


 秋、狄で乱が起き、これに衛は付け込んだことで、狄は衛と講和した。













 十二月、晋の文公が世を去った。


 彼は決して才能に溢れていた人物ではなかった。また、優秀な兄・申生しんせいがいたことで、彼は公族として、悠々自適の生活を送り、生涯を終えると思っていた。


 されど、運命の悪戯か、兄は父・献公けんこうに殺され、自分も命を狙われることとなり、波乱万丈の人生を送るようになる。


 父も死に、兄も死んでいる中、晋国内は大いに混乱し、弟・恵公けいこうに命を狙われ、彼は長く諸国を放浪することになる。


 その道中では多くの困難と災厄にも襲われ、何度も死にかけた。されど共に旅をする臣下たちの支えもあったことで、耐え続けた。


 遂に国君となると周王朝の混乱を治め、中原を脅かしていた楚を破り、諸侯の盟主にまで上り詰めた。長き放浪の末に国君になった彼に驚かぬ者は居らず、彼の徳を大いに讃えた。


 されど、彼は国政に私情を挟むこともあり、論功行賞において平等性に欠けたりすることもあった。また、礼儀に度が過ぎるところもあった。そのため彼を批難する者もいた。


 その中でも晋の文公を批難した介子推かいしすいという男もいた。文公の凄さは彼が自分を批難し、自分の元を離れた彼に土地を与え、己の過ちを認めたことである。普通では中々できることではない。


 晋の文公は在位が九年という短さではあったものの、晋を大国に押上げ、以後も諸国に大きな影響力をもたらせた。そのため春秋時代最高の名君と讃えられた。


 彼の遺体の入った棺を曲沃に運ぶ際、不思議なことが起きた。柩から牛の鳴き声が聞こえてきたのである。


 郭偃かくえんが大夫達に棺を拝させて言った。


「国君(文公)が大事(軍事)の命を発した。西師(秦軍)が国境を越えて我が国を侵すと、これを撃てば必ず大勝せんと申している」


 文公は自分が死しても、国を守ろうとしたのである。

















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