晋の文公
遅くなりました
十二月、狄が衛を包囲した。狄はかつて衛を滅亡に追い込んだことのある仇だが、衛の成公の代で衛の兵は弱くなっていた。
狄の攻撃に衛都である楚丘では耐え切れないと判断し、楚丘から帝丘に遷ることにした。成公が卜いを行うと「三百年」と出た。
それで安心して移したが成公が夢で康叔(衛の祖)に会った。
康叔が彼に言った。
「相(夏帝・啓の孫。中康の子。帝丘に住んでいた)が私の祭祀を奪おうとしている」
成公は相に康叔の祭祀を奪わせないために、相の祭祀を行うことにした。すると甯兪が反対した。
「鬼神は同族の祭祀でなければ、お供え物を受けないものです。杞と鄫はなぜ祭祀をしないのでしょうか(両国は夏の子孫なのだが、相の祭祀をしていない。そのため同族ではない衛が祀る必要はない、という意味である)。相は祀られなくなって久しくなりますが、これは衛の罪ではないのです。周の成王と周公・旦が定めた祭祀を変えてはなりません。相の祀に関する命を撤回なさいませ」
成公は命令を撤回した。
鄭の大夫・洩駕は以前から公子・瑕を嫌い、鄭の文公も彼を嫌っていた。
しかしながら洩駕とはこれまた、懐かしい名が出てきた。彼は繻葛の戦いの頃からいるため、百歳近いか以上のはずである。
二人に嫌われた公子・瑕は楚に奔った。後に彼は楚軍と共に鄭に戻ってくることになる。
紀元前628年
春、楚が闘章を晋に派遣し、和平を請うた。
晋は陽処父を答礼の使者として送った。これにより、両国和解がなったのである。
この時、答礼の使者となった陽処父は晋の文公の子、太子・驩の傅(教育係)に任命されている男である。
彼を息子に付けるに当たって、文公は胥臣に相談したことがある。
「私は陽処父を讙の傅に任命して教育させたいと思うが、上手くいくだろうか?」
胥臣が答えた。
「それは太子しだいでしょう。蘧蒢(体を曲げることができない障害)の者に体を屈めさせることはできず、戚施(ひどい猫背)の者に空を仰ぎ見させることはできません。僬僥(伝説上の小人の国。ここでは極端に小柄な人)に重い物を持ち挙げさせることはできず、侏儒(背が低い人)に物を高く待ち上げさせることはできません。矇瞍(目が見えない人)に物を見せることはできず、嚚瘖(声を出せない人)に話をさせることはできません。聾聵(耳が聞こえない人)に音を聞かせることできず、童昏(無知蒙昧の者)に謀をさせることはできません。学ぶ者の本質が優れていて、しかも賢者が導けば、必ず成果があるでしょう。されど学ぶ者の本質が邪悪であれば、教育しても身につけることができず、善良にすることもできません。昔、大任は周の文王を妊娠しても体が変わらず、豕牢(厠)で小便をした時に文王を産みましたが、全く苦痛がなかったといいます。文王は胎児だった時も母の負担にならず、傅に苦労をかけることもなく、師を煩わせることもなく、王(父・王季)を怒らせることもなく、二虢(文王の弟・虢仲と虢叔)を友愛し、二蔡(文王の子・管叔と蔡叔)を恵慈し、自ら大姒(文王の妻)の手本となり、諸弟と親しみました。『詩経(大雅・思斉)』にこうあります『己の妻に善を教え、兄弟にそれを及ぼし、家と国をうまく治めた』こうして四方の賢良を用いることができたのです。即位してからは『八虞(周八士。八人の虞官。虞官は山沢を管理する官のことで伯達・伯括・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季隨・季騧)』に意見を求め、『二虢』と相談し、閎夭や南宮适と謀り、蔡公・原公・辛甲・尹佚(皆、太史)を訪ね、周公・旦・召公・奭・畢公・高を重んじ、百神を安寧にし、万民を安楽にしました。故に『詩経(大雅・思斉)』にこうあります『先公を敬って神霊が怨むことがない』このような文王の業績は、教育だけによるものではありません(本質が優れていたのです)」
文公が憂いた表情で
「それでは教育とは無益なのか」
胥臣は首を振った。
「文というのは本質を更に美しくするためにあるのです。人は生まれたら学問をしなければなりません。学ばなければ正道に入ることができないからです」
「それでは八疾(前述の八種類の短所)の者はどうすれば良いのだ」
「官民がその長所を使えばいいのです。戚施は体を曲げて鐘を敲くことができ、蘧蒢は体を真っ直ぐにしたまま玉磬を持たせることができます。侏儒は矛戟を持たせ雑技をさせることができ、矇瞍は声を修めさせる(楽器を演奏させる)ことができます。聾聵は火を管理させることができます。童昏、嚚瘖、僬僥は官師にとっては役に立ちませんが、辺境に送って開拓を命じることができます。教育とは内在する能質(能力・本質)によって長所を育てるもの。川の源を海に導いて流れを大きくするのと同じことなのです」
文公はその通りだと頷き、陽処父を驩の傅に任命したのであった。
四月、鄭の文公が世を去った。
彼は斉や楚、晋の間を上手く渡りながら、国を保ち続けた人物である。ある意味、どっちつかずの狡さがあったものの、国を守るため行った努力は認めるべきであろう。
彼の周りには良臣も多く、彼らに対しては優しい面を見せることもあった。しかし、彼は実の息子たちにだけには殺意を向け、殺害又は、追放などしたことは褒められた行為ではない。
彼の後を継いだのは一昨年、太子となった公子・蘭である。これを鄭の穆公という。
秋、狄で乱が起き、これに衛は付け込んだことで、狄は衛と講和した。
十二月、晋の文公が世を去った。
彼は決して才能に溢れていた人物ではなかった。また、優秀な兄・申生がいたことで、彼は公族として、悠々自適の生活を送り、生涯を終えると思っていた。
されど、運命の悪戯か、兄は父・献公に殺され、自分も命を狙われることとなり、波乱万丈の人生を送るようになる。
父も死に、兄も死んでいる中、晋国内は大いに混乱し、弟・恵公に命を狙われ、彼は長く諸国を放浪することになる。
その道中では多くの困難と災厄にも襲われ、何度も死にかけた。されど共に旅をする臣下たちの支えもあったことで、耐え続けた。
遂に国君となると周王朝の混乱を治め、中原を脅かしていた楚を破り、諸侯の盟主にまで上り詰めた。長き放浪の末に国君になった彼に驚かぬ者は居らず、彼の徳を大いに讃えた。
されど、彼は国政に私情を挟むこともあり、論功行賞において平等性に欠けたりすることもあった。また、礼儀に度が過ぎるところもあった。そのため彼を批難する者もいた。
その中でも晋の文公を批難した介子推という男もいた。文公の凄さは彼が自分を批難し、自分の元を離れた彼に土地を与え、己の過ちを認めたことである。普通では中々できることではない。
晋の文公は在位が九年という短さではあったものの、晋を大国に押上げ、以後も諸国に大きな影響力をもたらせた。そのため春秋時代最高の名君と讃えられた。
彼の遺体の入った棺を曲沃に運ぶ際、不思議なことが起きた。柩から牛の鳴き声が聞こえてきたのである。
郭偃が大夫達に棺を拝させて言った。
「国君(文公)が大事(軍事)の命を発した。西師(秦軍)が国境を越えて我が国を侵すと、これを撃てば必ず大勝せんと申している」
文公は自分が死しても、国を守ろうとしたのである。




