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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第五章 天命下る

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晋の名臣たち

 晋の上軍の将・狐毛こもうが死んだ。


 彼は温和な性格で晋の文公ぶんこうの放浪中、誠実に支え続けた名臣であると同時に、才気が溢れすぎる弟・狐偃こえんの抑え役でもあった。


 彼の死を嘆きながらも、文公は彼の代わりとして上軍の将に趙衰ちょうしを任命しようとした。


 上軍の将は正卿となり、国政を担うことになる。しかし趙衰はこれを断った。


「城濮の戦では先且居せんしょきょ先軫せんしんの子)が軍を補佐し、功を立てました。軍功を立てた者、主君を正しく導いた者、己の職務を全うした者には賞を与えるべきです。先且居にはこの三賞が当てはまるため、用いないわけにはいきません。そもそも、臣と同等の者には箕鄭きてい胥嬰しょえい先都せんと(三人とも大夫)がいます。彼を用いるべきです」


 相も変わらず、謙虚なことだと思いながら文公は先且居を上軍の将に任命した。


 文公が言った。


「趙衰は三讓した(卿の地位を三回辞退したこと。紀元前633年の二回と今回)。しかも彼が譲った人材は全て社稷の衛(守り)となっている。謙譲を称賛しなければ、徳を廃れさせることになる」


 秋、晋が清原で蒐(狩猟。閲兵。軍事訓練)し、五軍を設けて狄の備えとした。


 晋は元々三軍(車兵)と三行(歩兵)があったが、今回、三行を解散して全て車兵とした。


 新上軍と新下軍が新設され、文公は趙衰を新上軍の将に、箕鄭を佐に任命し、胥嬰を新下軍の将に、先都を佐に任命した。


 五軍にしたのは、趙衰を卿にするためである。


 ここで新上軍の佐になった箕鄭は、結構最近になって、用いられた人物である。


 かつて晋を飢饉が襲った時があった。文公が大夫・箕鄭に対策を尋ねた。


「どうすれば救済できるだろうか?」


 箕鄭はこう答えた。


「信を守るべきです」


「どうすれば信を守ることができるか?」


「国君の心に信を用い(国君の私情で臣下の善悪を判断しない)、名分(君臣・百官の尊卑・等級)に信を用い、政令に信を用い、民事(農務・労役)に信を用いれば、信を守ることができます」


「それらを実行すればどうなる?」


「君心が信を用いれば善悪が入り乱れず、名分に信を用いれば上下が立場を侵すことなく、政令に信を用いれば農事が影響を受けず、収穫が約束され、民事に信を用いれば民が事業に従事して成果を納めることができます。その結果、民は君心を理解し、貧しくともそれを憂いとせず、富貴の者は自分の家のために金銭を使うようになり、余った財産を救済に使うようになりましょう。これなら国が困窮することありません」


 文公は彼の言を大いに気に入り、箕地の守官に任命するとともに新上軍の佐に任命したのである。


 暫くして上軍の佐・狐偃が死んだ。文公は彼の死に大いに嘆いた。それだけ彼は文公にとって大切な功臣であったのだ。


 狐偃は正しく王佐の才を持ち、文公に適切な策を常に進言してどこにもいる普通の公子であった文公を遂には覇者にまで押し上げた。名臣の名に相応しい人物である。


 されど、己の功績をもって文公を国君にしたと黄河で誓わせたのは余計であった。


 先且居は上軍の将から佐に位を落とすことを請うた。しかし文公はこう言った。


「趙衰は三讓して義を失わなかった。譲とは賢人を推すことであり、義とは徳を広めることである。徳が広くなれば賢人も集まるだろう。趙衰を上軍の佐に任命して汝に従わせることにしよう」


 趙衰は新上軍の将から上軍の佐になった。上軍の方が新上軍よりも上位にあるため、趙衰は三等昇格したことになる。










 その後、文公は鄴に攻め込む際に趙衰が策を献じた。文公は彼の策を用いて鄴を破った。


 凱旋した文公が論功行賞を行おうとすると、趙衰が言った。


「国君は戦勝の本(根本)を賞するつもりですか、それとも末(末端)を賞するつもりですか。末を賞するつもりならば、車に乗って戦った戦士がおります。本を賞するつもりならば、私は郤子虎げきしこ(恐らく郤家の者?)の言に従っただけのことです」


 そこで文公は郤子虎を召した。


「趙衰の進言によって鄴に勝つことができたから彼を賞そうとしたら、彼は『子虎の言を聞いただけなので、子虎を賞するべき』と申していた」


 文公がそういうと郤子虎は言った。


「言うは易く、行うのは難しいもの。臣は言うだけの者に過ぎません」


 彼がそういって断ったが文公は


「汝は賞を辞退してはならない」


 と言ったため、郤子虎は拝受した。


『呂氏春秋』はこの一件を評価した。


「賞を与える時は対象を広くしなければならない。対象が広ければ広いほど多くの助けを得ることができるからだ。郤子虎は彼自身が進言したわけではないが、賞を得ることができた。こうすることで国君との関係が疎遠な者でも才智を尽くすようになる。晋の文公は久しく亡命しており、帰国してからも大乱の余波が残っていた。それでも覇を称えることができたのは、これのおかげであろう」


 このように絶賛された文公だが、彼はそれほど臣下たちの言葉に耳を傾け、努力していたのであろう。


 郭偃かくえんにこうこぼしたことがある。


「先生、私は始めは国を治めるのことなど容易だと思っていました。されど今は難しいと思うようになりました」


 郭偃は笑っていった。


「主公よ。簡単だと思ったら難しくなるもの。逆に難しいと思えば、簡単になりますぞ」


「本当でしょうか?」


「本当だ」


「そうですか」


 文公は笑った。







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