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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第一章 周王朝の失墜
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斉の僖公

申し訳ありません少し訂正させていただきました

 紀元前716年


 せい僖公きこうが再び夷仲年いちゅうねんに送ってきた。昨年のがいでの会盟をさらに深めるためである。


 秋、『東門の役』以来、対立してきたそうてい宿しゅくにて講和した。鄭は周の桓王かんおうに疎まれていることから周の桓王に近い国を自国の側に迎え、勢力を削りたいと考えるようになったため、宋と講和することにしたのである。


 また、周に近いちんとも講和した。講和の盟を結ぶために陳は五父ごほを送ってきた。鄭の荘公そうこうは陳と盟を結んだ。


 この頃の盟を結ぶ時は血を互いに啜るのだがその際、五父は気の抜けた状態で盟を行っていた。その様子を鄭の大夫・洩駕せつがは言った。


「五父にはやがて難が起こるだろう。盟に対し、真摯に向き合っていないために」


 盟を結ぶという行為は天に向かって、誓う儀式である。それに対し、真摯に向き合わなければ、天を偽ることになる。天に偽りを示せば、必ず、その報いを受けることになるのだ。


 鄭からも大夫・良佐りょうさが陳に赴き桓公と盟を結んだ。だが、桓公の様子を見て、彼は陳にやがて乱が起こると思った。


 つまり、陳は君臣共に、天を偽る行為をしたということである。


 そんな暗雲漂う陳から鄭へ使者がやって来た。要件は婚姻である。


 使者によれば陳の桓公は鄭の公子・こつが周にて人質になっている間に会っており、彼のことを気に入っていたため荘公に娘を忽に嫁がしたいと言った。


荘公からすれば陳との講和もあり、両国の関係をより良くするためにこれに同意した。






 紀元前715年


 春、斉の僖公が宋、えい、鄭の講和のための会盟の準備を始め、日程も決めた。


 宋の殤公しょうこうは衛の宣公せんこうに賄賂を送り、事前に会盟を行いたいと請うた。衛はこれに同意し、犬丘で会見した。宋は前年に鄭と融和したので衛に対し、衛も鄭と融和するように説得した。


 鄭にはぼうという邑がある。かつて鄭の桓公かんこう宣王せんおうの弟として周王が泰山で祭祀を行う時に従うことになっており、祊は祭祀前の斎戒沐浴に使うための邑(このような邑を湯沐邑と言う)として鄭に与えられていた


 そして、魯にはきょ(国として、許があるがそれとは関係ない)という邑が周から与えられていた。魯が周の王都に朝見する際、宿泊するための邑である。許には周公旦しゅうこうたんの廟が建てられていた。


 鄭の祊は魯の近くにあり、魯の許は鄭の近くにある。


 鄭の荘公が魯に祊と許の交換を申し入れた。周王による泰山の祭祀が幽王ゆうおうの死後、途絶えていたため、湯沐邑である祊はもう必要ないと考えたためである。


 しかし、許には周公旦の廟があるため、魯は拒否するかもしれないと鄭の荘公は考えた。そのため魯にはこう伝えた。


「泰山の祭祀を止めて周公を祀りたい」


 三月、鄭は大夫のえんを送り、祊を譲り渡した。それを受けて、魯は人を祊に送った。


 許が鄭に譲渡されるのは紀元前711年のことである。だがこの周から与えられた邑を勝手に交換するのは礼に背く行為であり、しかも鄭に与えていたのは祭祀における大切な邑である。これは鄭と周の反目は決定的となった。


 夏、周の桓王は卿士の位を虢公・忌父きほに渡した。鄭の行いが癇に障っているためである。


 周公・黒肩こくけんは当然、諌めたが桓王は聞き入れなかった。これにより、鄭の荘公は周王朝の政治から遠ざけられたことになる。


 もはや、鄭と周の関係は修復不可能となっていった。






 四月、鄭の公子・忽は嬀氏ぎしを娶るため陳に入った。


 公子・忽は嬀氏を連れ、帰国し、婚礼を行った後、祖廟に婚姻の報告をした。これは本来無礼な行為であり、嬀氏に同行していた陳の大夫・陳鍼子ちんけんしはこれを知り、言った。


「これでは夫婦としての資格は無い。祖先に嘘をついており、礼に反している。これでは子孫が発展することはないだろう」


 祖先に対して嘘をつく。これもまた、天を偽ることと同じであえる。


 なぜ公子・忽はこのようなことをしたのであろうか。彼は元々、後に鄭君に着く存在であり、礼に関しての教育も受けているはずである。元々彼には独特の感性、美学がある。それゆえであろうか……






 七月、斉の僖公、宋の殤公、衛の宣公はおんで会見し、その後、瓦屋で会盟を行った。これをもって、鄭、衛、宋による東門の役以来の対立はこれにより、解消された。


 冬、斉は魯に鄭、宋、衛の和睦がなったことを伝えた。


 魯の隠公いんこう衆仲しゅうちゅうを斉に送り、こう伝えた。


「貴君は対立していた三国を和睦させ、民を安んじました。貴君の御仁徳のおかげでございます。私はそれに従うのみでございます。貴君の御仁徳に背きません」


 隠公は僖公のあり方を讃えたと言っていい。







 このように諸国の対立を僖公が治めた中、北では大きな戦いが起こった。ぜいと翼(晋)が曲沃の京邑に進攻したのである。


 父・荘伯そうはくが前年に亡くなり、子の武公ぶこうは喪に服していた。喪に服している国を攻めるのは無礼であるが攻められている以上は対処しなくてはならない。彼は軍を動かした。


 だが芮と翼の両軍を前に彼は大敗してしまい。翼に和睦を請うほどであった。翼はこれに同意した。


 この時、武公の今にも弾けようとしている復讐の炎に気づかないままに翼は城に戻った。


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