衛の成公
紀元前630年
春、晋は鄭に兵を進め、攻撃するべきかどうかを探りっていた。鄭が亡命中の晋の文公に対して無礼を働き、しかも楚に附いためである。
夏、晋が鄭に兵を動かしている隙を利用して、狄が晋の同盟国である斉に侵攻した。そのため、晋は斉を救援するために晋は兵を斉に向かわせ、斉を救援した。
二年前の温の会で晋が衛の成公を捕え、周に送っていた。
晋の文公は成公を殺すように請うていたのだが、周の襄王は拒否して言った。
「政令とは上から下に出されるものであり、上が定めた政令を下は逆らわずに実行するものである。だから君臣の間に怨みが生まれないのだ。今、叔父(同姓の諸侯)が侯伯として政令を定めているものの、徳を行わないようでは政令は守られないだろう。本来、君臣の間に獄(訴訟)があってはならない。そのため元咺の行動は直(実直。正義)だが、それを聴いてはならなかったのだ。君臣が互いに訴えあうようになったら、父子も訴訟しあうようになるからだ。その結果、上下の秩序がなくなってしまうだろう。叔父が臣下である元咺の訴えを聴いたのは一つ目の逆(礼に背いたこと)である。更に臣下のためにその主君を殺したら、刑の意味がなくなってしまうことになる。刑を設けながらも用いないのは二つ目の逆である。諸侯を集合させながら逆政を行うようでは、二度と諸侯を従わせることができなくなるだろう。このような心配がなければ、余が私情によって衛侯をかばうことはないのだ」
襄王は成公を殺さないのは文公のためであると言ったのもあるが、この文公を止めないと自分にもそういったことが起きるのを防ぎたくもあった。
だが、このように襄王から言われても、文公は余程、成公という人が嫌いなのだろう。
医者・衍を送って成公を酖殺(毒殺)しようとしたのである。しかし衛の甯兪が彼に賄賂を贈って酖の量を減らすように請うたため、おかげで成公は死ぬことはなかった。
因みに毒をもった医者・衍は罪を問われることはなかった。
しかしながら、晋の文公がこれほど個人を嫌うのは珍しい、彼と敵対した楚の成王や子玉に対してもそれほど敵意をむき出しにすることもなければ、自分を殺すために何度も襲いかかった寺人・披も経緯はどうあれ許している。
そんな文公が、衛の成公だけにはこれほどの敵意を向けている。
ある意味、いつ殺されてもおかしくない成公を救ったのは魯の臧孫辰である。
彼は魯の僖公に言った。
「衛君は無罪と言えましょう。刑には五種類がありますが、毒をもって暗殺するという刑はありません。暗殺とは忌避されるべきことです。大刑(大逆等の大罪)は甲兵を使い(死刑)、その次は斧鉞を使い(死刑)、中刑は刀鋸を使い(宮刑や脚を切断する刑)、その次は鑽笮(錐等、切削用の工具)を使い(刺青の刑)、薄刑は鞭扑(鞭や棒)を使うものです。この五刑によって民に威信を示すことができるのです。罪悪が大きい者は死体を原野に晒され、小さい者は市朝(市場や朝廷)に晒されます。これら五刑三次(五刑と三つの場所)はどれも隠す必要がありません」
正しい刑罰を行っているのであれば、何ら恥じる必要はないのである。
「されど晋は鴆(かつて魯の季友が叔牙に勧めた毒を持つ鳥)によって衛君を暗殺しようとしましたが失敗し、その使者(医者)を裁くこともありませんでした。暗殺の悪名を恐れるためです。もしも諸侯が衛君の釈放を求めれば、晋は聞き入れるでしょう。地位が均しい者は互いに関心をもつといいます。関心をもつから親しくできるのです。諸侯を禍患が襲えば、他の諸侯はそれを憐れむべきなのです。こうすることで民を教化できます。主公は衛君の釈放を請い、諸侯に親しみを示して晋を動かすべきです。晋は諸侯を得たばかりですので『魯は親近の諸侯を棄てなかった。魯との関係を悪化させてはならない』と思うことでしょう」
彼が成公を助けようとするのは、同情でもなければ、哀れんだわけでもない。魯の印象を良くするためである。
僖公は納得し、衛の成公を釈放するように請うた。その際、周の襄玉と晋の文公にそれぞれ十瑴(双玉)を贈った。
この魯に対し、文公は渋々成公の釈放に同意した。
この後、晋は魯を聘問する時、他の諸侯より一等上の礼を用い、礼物も同等の諸侯より厚くしたという。魯の思惑はどうあれ、嫌われ者であろうとも救おうとした態度は文公の好みにあったのであろう。
因みに、後に帰国した衛の成公は臧孫辰のおかげで釈放されたと知ると礼物を贈った。
しかし臧孫辰はこれを受け取らず、言った。
「外臣(他国の臣)の言というものは国境を越えないと申します。衛君と直接関係をもつつもりはありません」
臧孫辰の態度は見事としか言うしかない。
秋、晋の文公が魯の願いを聞き入れたため、周の襄王が衛の成公を釈放した。
しかし、彼は帰国することができないでいた。元咺が入れようとしないのである。
(おのれ、あの男は許さん)
されど、この文公に大いに嫌われたこの男は幽閉されてもその本質は何一つ変わってはおらず、反省するどころか自分を訴え、幽閉させた元咺を大いに憎んでいたため、彼は衛の周歂と治厪に賄賂を贈り、こう伝えた。
「私を国に入れることができれば汝等を卿に立てよう」
二人は欲に目がくらみ、元咺と衛君・瑕および子儀(瑕の同母弟)を殺して成公を迎え入れた。
こうして成公が国都に入り、太廟で先君の祭祀を行った。卿の任命は太廟で行われるためである。
周歂と治厪は卿と約束されていたため、礼服を着て太廟に向かう。
ところが先に太廟に入ろうとした周歂は、なんと門に至ると突然苦しみ始めた。そして、そのまま死んだ。
「ひぃぃぃ」
冶厪はこれに恐れて卿を辞退した。
彼らは天の怒りに触れたのである。天は傲慢なものを憎むのだ。




