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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第五章 天命下る

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温の会

秋、晋軍は都に凱旋した。


晋の文公ぶんこうは太廟に戦勝を報告してから宴を開き、論功行賞を行った。ここで文公は狐偃こえんを功績第一とした。


ここである者が疑問に思い、言った。


「城濮の戦いでは先軫せんしん殿の謀によって勝利しました。なので、功績第一位とするのであれば先軫殿ではありませんか?」


彼の疑問は誰もが思う疑問である。


それに対し、文公は答えた。


「城濮の戦いにおいて、偃は私に信を失うなと勧めた。一方、先軫は『戦とは勝つことが大切である』と言った。私は先軫の言を用い、勝利を得たもののこれは一時の言葉だ。偃の言葉は万世の功となる。一時の利が万世の功に勝ることはない。だから狐偃が先なのだ」


彼はそう言って、狐偃の功績を讃えた。


論功行賞を行う上で、彼は勝手に己の職務を放棄して帰国した舟之僑しゅうしきゅうを処刑した。


舟之僑には、正義のある行動であったかもしれなかったが、彼を擁護するものはおらず、民は文公が規律を正したとして、心服した。また、晋の文公は適切に刑罰を行っていると人々に讃えられた。


冬、晋の文公、魯の僖公きこう、斉の昭公しょうこう、宋の成公せいこう、蔡の荘公そうこう、鄭の文公ぶんこう、陳の共公きょうこう(陳の穆公ぼくこうの子)、莒君、邾君、秦の穆公ぼくこうが温で会見した。


秦が諸侯の会盟に参加するのは初めてである。


因みに陳の共公のことは、史書では陳子という書き方をしている。父の穆公が死んで年が明けていないためで、年が明けてない時は史書では陳子と書いて、まだ正式に即位したわけではないとしている。


この諸侯間で結ばれた盟約に服従しない国を討伐することが約束された。


さて、この温の会では珍しいことが行われた。


晋に出奔した衛の元咺げんけん叔武しゅくぶ殺害の件で訴訟を起こしたため文公は温の会で衛の成公せいこうと元咺で討論させたのである。


衛の成公側は甯兪ねいゆが輔(補佐)を、鍼荘子けんそうしが坐(成公の代理人)を、士栄しえいが大士(答弁人)を務めた。


だが、この討論の結果、衛の成公側が敗訴し、晋の文公は士栄を殺し、鍼荘子を刖(脚を切断する刑)としました。しかし、甯兪は忠臣と認めて赦した。


衛の成公は捕えられ、京師(周都・洛邑)の深室(囚室)に幽閉され、甯兪が成公に衣食を送る係となった。


勝利した元咺は衛に帰ると公子・(またはてき。恐らく成公の庶弟?)を国君に立てた。

















温の会で晋の文公は周の襄王じょうおうを招き、諸侯を率いて謁見することにした。


後に孔子こうしは、


「臣下が天子を呼びつける真似をするべきではない」


と考え、『春秋』に『天王が河陽(黄河の北。温邑)で狩りをした』と書いた。晋の文公に呼ばれたのではなく、襄王自ら狩りのために外出したという意味にしたのである。


このように歴史書は書き換えられていることを踏まえて見ることも必要がある。


十月、晋の文公、魯の僖公、斉の昭公、秦の穆公、衛君・瑕、陳の共公、蔡の荘公が河陽で襄王に朝見した。


その後、晋は諸侯を率いて許を包囲した。


楚に従っていたのは鄭、衛、許、陳といった国だが、許だけが会盟に参加することもなく、襄王にも朝見しなかった。それを責める意味で河陽から近い許を攻撃したのである。


この頃、晋の文公は突然、病に倒れた。


そのことを知った者がいた曹の大夫・僖負羈きふらである。


彼の主である曹の共公きょうこうは晋の怒りを買い、位を廃され曹という国は滅亡に近い状態であった。


僖負羈は晋の文公に気に入られたため、彼自身の扱いは悪くないが、それでも彼は曹の臣下なのである。国の状況を憂いていた。


そこで、晋の文公が病に倒れたと知り、それを利用することにしたのである。彼は曹の共公の豎(未成年の侍従)・侯獳こうじゅに晋の筮史へ賄賂を贈り、晋君の病の原因は曹を滅ぼしたことにあると言わせるように勧めることを命じた。


賄賂を受け取った筮史が晋の文公に言った。


「斉の桓公かんこうは諸侯と会して異姓(邢・衛)を復国させましたが、今、主君は諸侯と会して同姓を滅ぼしました。叔振鐸しゅくしんたん(曹の始祖)は周の文王ぶんおうの子であり、晋の先君・唐叔とうしゅくは周の武王ぶおうの子です。諸侯を集め兄弟を滅ぼすのは礼ではありません。また、曹も衛と同じように復国を約束したのに、衛は復位し、曹は滅ぼされたままではありませんか。これでは信がありません。罪が同じでも罰が異なるようでは、刑とはいえません。礼は義を行い、信は礼を守り、刑は邪を正すものです。この三者を棄てて主公はどうなさろうとしているのでしょう」


文公は諫言を聞き入れ、曹の共公を復位させた。曹も諸侯の軍と合流し、許攻撃に参加した。


また、この時、晋は三行を作り、狄に備えさせた。


「行」とは歩兵部隊のことである。晋には元々二行があり、これで一行、増加したことになる。


荀林父じゅんりんぽが中行を、屠撃とげきが右行を、先蔑せんべつが左行に任じた。





















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