二人目の覇者
城濮の戦いに勝利した晋軍は兵を還す途中、鄭の衡雍の地に至ると周の襄王のために踐土(衡雍の西南)に王宮を築いた。
今、晋軍のいる鄭の国君である鄭の文公は正直、困っていた。彼は城濮の戦いの三か月前、楚陣に入って援軍を送ることを約束していたからである。
鄭は晋の文公が亡命した時に礼を用いなかったため、晋の報復を恐れていた。そのため楚に従っていたのだが、鄭は城濮の戦において兵を送ってはいなかった。
送らなかった理由は特にない。なんとなくである。
だが、その勘は当たったのか、楚軍は城濮の戦いで敗れた。
(兵を失うことはなかったが……さて、どうするか)
ほっとした一方、敗報を聞いた鄭の文公は晋の報復の矛先が自国に向くのを恐れた。そこで子人九(鄭の厲公の弟・語の子孫)を晋陣に送って講和を求めた。
「鄭君の変わり身の早さは気に入りませんなあ」
胥臣がそう言うと、欒枝が言った。
「確かに鄭君の変わり身は気に入りませんが、ここで変に鄭と喧嘩する必要も無いかと思いますぞ」
晋の文公は彼の言葉に頷いた。彼としては今、鄭と喧嘩する必要性はないのである。
「欒枝殿、ならば盟を結ぶための使者として行ってくれ」
「承知しました」
晋の文公は欒枝を鄭に送って盟を結び、五月、晋の文公と鄭の文公が衡雍で会盟した。
「鄭君よ。此度の盟をもって天下の安定を共に守っていきましょう」
「左様ですなあ」
晋の文公の言葉に鄭の文公は頷く。
「そのことを共に、周王にも報告いたしましょう」
「承知した」
翌日、晋の文公は楚との戦いで得た捕虜や戦利品(駟介(甲冑をつけた戦馬)百乗(四百頭)と徒兵(歩兵)千人)を襄王に献上した。
この時、襄王は鄭の文公に周の平王時代の礼を用いて王を補佐させた。平王時代、鄭の武公は周の卿士であり、相の任務を与えられていた。また、平王の東遷を援けたのは武公と晋の文侯である。
今回、鄭の文公に平王時代の礼を恢復させたのは、鄭と晋が協力して周王室を援けよという襄王の意志が込められている。
数日後、襄王が宴を設けて晋の文公をもてなした。
襄王は尹氏と王子・虎(太宰・文公)、内史・叔興に命じ、策命によって晋の文公を侯伯(諸侯の長)に任命させた。
大輅の服と戎輅の服(大輅は天子の車。戎輅は兵車。服というのはそれぞれの車に見合った衣服や装飾のこと)および彤弓一・彤矢百(彤は赤)、玈弓矢千(玈は黒。弓矢千は弓十張りと矢千本の意味。古代は矢百本に対して弓一張り配されたため、矢千の場合は弓十になる)、秬鬯一卣(秬鬯は祭祀で用いる酒。卣は酒器)、虎賁(勇猛な士)三百人が下賜された。尹氏等が晋の文公に言った。
「王から叔父(同姓の諸侯)に対する言葉をこれより、申します。謹んでお聞きください。『恭しく王命に服し、四国を安んじ、王と敵対する者を遠ざけよ』
(私が覇者か……)
彼はまさか自分が覇者になるとは思ってはおらず、恐れ多いとして辞退したが、その度に侯伯になることを襄王が命じたため、三回目にして受け入れた。
「重耳は再拝稽首し、天子の賞賜と命令を受け入れます」
文公は策書を拝受して退出し、その後、襄王を三回朝覲した。
こうして斉の桓公に次いで正式に認められた二人目の覇者が誕生したのである。
この時、衛の成公は襄牛にいたが、楚が敗れたと聞いて諸侯や国民から攻撃を恐れ、楚に出奔した。その後、陳へと遷った。
そこで、彼は晋の文公、斉の昭公、魯の僖公、宋の成公、蔡の荘公、鄭の文公、)、莒君ら諸侯が踐土に集まっていると知った。
(楚が敗れ、天下は晋が握るか……)
悔しさを滲ませる彼だが、彼は国君なのである。楚の代わりに現れた大国である晋と自分の国のことを考えなければならない。
そこで彼は衛都にいる元咺に命じて弟の叔武と共に会盟に参加するように命じた。晋の文公に嫌われている成公自身は陳に留った
実はこの時、会盟の地に陳の穆公も参加していた。晋を恐れたためである。だが、陳は楚と同盟を組んでいたため、諸侯との会盟には加えられなかった。
王子・虎が踐土の王庭で諸侯と盟を結び、こう宣言した。
「諸侯は皆、周王室を援けよ。互いに害してはならぬ。この盟に背く者は明神が誅殺し、その軍を滅ぼし、国を享受することはできず、禍は玄孫に至るだろう。誅殺に老幼の区別はない」
彼の言葉に諸侯は背かぬことを誓った。




