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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第一章 周王朝の失墜
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諸国の対立

 紀元前718年


 そうちゅを攻め、田土を取った。これに怒った邾はていに訴えた。


「貴国が宋を攻めて我らの恨みを晴らしていただけるのであれば我らは宋との戦において、先導いたします」


 『東門の役』の恨みを忘れてはいない鄭の荘公そうこうは邾の言を入れ、出兵を決めた。荘公は周都に連絡し王の軍を出してもらい周軍と邾軍と共に宋の外郭を攻め、侵入した。これにより、『東門の役』の報復とした。


 宋はこの事態に慌てて、魯に使者を出した。以前の鄭との戦で魯は清での会盟を守り、羽父うほを派遣してくれたためである。


「今、宋は危機に陥っております。援軍を出していただきたい」


 魯の隠公いんこうは宋の外郭まで鄭が侵入したと思ったため既に配下に出兵の準備をさせていた。


「敵軍はどこまで達したのか」


 隠公が使者に問いかけると、使者は見栄を張って彼に答えた。


「まだ城内には達しておりません」


 宋は使者の人選を間違えたと言っていい。彼の使命は自国の危機をはっきりと伝え、援軍を求めることである。それにも関わらず、国の面子に拘っている。


 この使者の答えに彼は腹を立て、出兵の準備を既に始めていたものの、これをやめさせ、宋の使者を送り返し、援軍の件を断らせた。


「宋君は私に宋の社稷の危機を救ってもらいたいと仰せられた。しかし、いま使者に伺えば敵軍は城内に達してないとのこと。それでは私の関知することではないと思われます」


 宋はこの魯の返答に怒ったが彼からすれば本当に助けて欲しいのであればそれ相応の態度というものが必要であるはずなのにこのような使者を送ってきた宋のほうに非があると考えている。そのため結局出兵しなかった。結果、宋は鄭に散々に破れた。


 十二月、魯の臧僖伯ぞうきはくが亡くなった。隠公はこれを知ると悲しみ、


「叔父は私に恨みを持っていた(讒言を聞かなかったこと)。私は叔父の忠義を忘れない」


 臧僖伯の葬儀の格が一段上げられて行われた。


 隠公のこの行為は僅かに偽善が混じっているが以後、臧僖伯の子孫が魯のために尽くしていくことを思うとこの彼の行為が関係しているのかもしれない。


 宋が外郭への攻撃への報復として長葛を攻め、包囲した。これは翌年の秋まで続き、これを落とした。






 紀元前717年


 春、鄭が魯に使者を送ってきた。関係を修復するためであるのと、宋に協力するなという意味もあるだろう。


 同じ時期、せいからも使者がやって来た。実は斉と魯は昔から仲が悪い。この二つの国は国としてのあり方が違いすぎるためである。


 例えば、斉の始祖である太公望たいこうぼうと魯の始祖である周公旦しゅうこうたん(実際は周公旦の息子である伯禽はくきんが始祖である)の逸話がある。


 二人が国の運営について意見を交わした時のことである。太公望はこう言った。


「才のある者を登用し、功績にあった地位を与える」


 それに対し、周公旦はこのように答えた。


「それでは臣下に国を乗っ取られるぞ」


「ならばあなたはどのように国を治めるのですかな」


「才ある者も登用するが身内の者を重用する」


 この意見に対し、彼は頭を振って言った。


「それでは国が衰えるでしょう」


 この二人の逸話の通り、この二つの国は国としてのあり方が違い過ぎるため昔から仲が悪かった。そんな両国が夏、がいで会盟を行い、両国の関係は修復された。


 この会盟を実現させたのは斉の僖公きこうの弟である夷仲年いちゅうねんの尽力によるものである。この人は斉における外交を任せられており、僖公の信頼も篤い人物である。


 鄭は陳にも講和の使者を派遣していたが陳の桓公かんこうはこれを断った。公子・こと五父ごほがこれを諌めた。


「仁義をもって、隣国と親しむことが国にとって大切にすることでございます。鄭との講和に同意するべきです」


「宋と衛の方が厄介なのだ。鄭などは問題ない」


 陳の桓公はこう言って、許さなかった。陳の桓公は周の桓王に近い人物である。そのため周と対立している鄭に対し、反感を持っているそのため鄭との講和を許さないのであろう。


 講和をしなかった陳に怒った鄭は陳を攻めた。鄭は荘公の元、大いに発展しており、軍は天下の中でも屈指の強さを持っている。そのため陳は大敗した。これを招いたのは陳の桓公の責任である。






 鄭の荘公は陳を破った後、周都に趣いた。周の桓王の即位以来、初めてのことである。これは裏を返せば周の桓王への脅しの意味もあるかもしれない。


 この意味を察しているのか、桓王は彼を礼遇しなかったので、周の桓公かんこう黒肩こくけんが諌めた。


「我ら周室は平王へいおうの頃の東遷した折り、晋と鄭に大いに力を貸してもらいました。鄭を厚遇して来る気にさせても、来るとは限らないのに礼遇しなければなおさら来ないでしょう」


 周公・黒肩からすれば今の周には諸侯の助けが必要であり、もっとも諸侯の中でもっとも力を持っている鄭の力は不可欠である。そのため鄭を礼遇すべきと考えている。


 だが、父・平王が我慢の人であったのに比べ、彼は感情の人であり、諸侯は王に従うべきという考えを譲らない人である。そのため、王室よりも力を持っている鄭を受け入れることができない。


 しかし、王とはそのように感情を表すことはあってならず、感情を押し殺すことを求められるものである。そのように考えると平王はそのあり方は見事であった。しかし、桓王はそれができない。


 周公・黒肩はそんな桓王を支えなければならず桓王の我が儘に生涯振り回されることになる。





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