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春秋遥かに  作者: 大田牛二
第五章 天命下る

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魏犨

昨日は投稿できず申し訳ありません。

 紀元前632年


 正月、宋の包囲を解くため、晋の文公ぶんこうは軍を率い、楚の同盟国である曹を攻めることにした。


 曹は衛の東にあるため、文公は衛に道を貸すように要求した。


 衛の大夫たちは口々に晋に道を貸し、晋に力を貸すべきであると衛の成公せいこうに進言した。しかし、成公は首を縦に降らない。


(曹を攻めるために道を貸せだと、気に入らん)


 彼が晋に道を貸さないのは感情的なものである。


「道を貸すべきです」


「道は貸さん」


 成公がそう言って、断固として譲らないため衛は晋に道を貸さなかった。


「おのれ、衛め」


 文公は感情的な部分がある。ここで衛が道を貸してくれなかったため彼は放浪中の自分への衛の扱いを思い出し苛立った。


狐偃こえん、あの時の土を貰いに行くぞ」


「承知しました」


 晋軍は兵を還して南河(南津)から黄河を渡り、衛の五鹿を攻め、ここを瞬く間に落とした。ここはかつて、住民に土を与えられたところである。この時の晋軍の強さは今までとは比べようにもなにものであり、衛は成公を始め、恐れおののいた。


 このまま、もしや衛都まで来るかと思ったが、晋の動きは二月に入ると止まった。外の人間からはこの不可解な停止であった。


 実は、晋の中軍の元帥・郤縠げきこくが急死したのである。


 この時代、五十を超えれば長生きなため、ある意味、この急死はこの時代、普通のことかもしれない。しかしながら、彼の後任をどうするかに文公らは悩んだ。


 本来であれば、中軍の佐であった郤溱げきしんを一段繰り上がる感じで、中軍の元帥になるのだが、中軍の元帥に郤縠の能力を見込んだためであり、正直、郤縠に劣る彼をを任せることに不安があった。


 狐偃が進言した。


先軫せんしんにしてはいかがですか?」


「先軫をか……」


 先軫は下軍の佐であり、中軍へ上げるとなれば、その間にいる者たちを無視して繰り上げることになる。


「彼は戦の才がございます。必ずや役に立つと思います」


「中軍は先軫にしよう。下軍の佐は誰にする?」


胥臣しょしんが宜しいかと」


「では、そうしよう」


 こうして、中軍の元帥に先軫、下軍の佐に胥臣が任命された。このような大抜擢は活気を生むものである。


 その後、文公と斉の昭公しょうこうが衛の斂盂で盟を結んだ。この盟にのこのこと成公が現れた。


「今更、なんのつもりか」


 文公は彼が盟に参加することを拒否する。するとさっきまで晋を恐れていた成公は怒り、楚に着こうとした。


 だが、衛の国民はこれを望まず、一斉に成公を攻め、彼を追い出した。彼を追い出すことで晋の歓心を得ようとしたのである。


 晋軍はこれを知ると衛の都に進んだ。


 都を出た成公は東郊の襄牛で住むようになった。しかし、彼は都から追い出されたことも晋のせいだと憎んだ。


 衛の成公という人は自分に都合の悪いところや、どうにもならないことは他人のせいにする人である。


 衛の国境沿いに駐屯している魯の公子・ばい(字は子叢しごう)に書簡を出し、救援を求めた。


 何故、衛の国境沿いに魯の公子がいるのかというと衛と楚は婚姻関係を結び、魯は楚と同盟関係であった。そのため、魯の公子・買は軍を率いて、いつでも衛を守れるようにしていたのである。


 公子・買はこれに答え、楚に援軍を要請し、守備に就いた。


 楚の援軍は衛に着くと、直ぐ様、晋と戦闘を開始するが、晋軍の前にあっさり敗北する。楚の援軍が負けたことを恐れた公子・買は不利を悟り、魯へと帰還した。


 魯に帰還した彼を魯の僖公きこうは嫌な顔をした。彼の帰還により、魯は難しい立場に追いやられたからである。


(正直、戦って戦死してもらいたかった)


 公子・買は晋軍の強さを恐れ、一戦もせずに帰還したことを楚は怒るだろう。また、衛を守っていた事実があるため、魯は完全に楚側であることを晋に知られ、晋軍の驚異に晒されることを恐れた。


 そこで彼は晋を喜ばせるために公子・買を殺し、楚にはこう報告した。


「子叢は任期が満ちていないにも関わらず、帰国しようとしたため処刑しました」


 このような偽りをしなければならないほど、楚という国は驚異となっていたのである。











 晋軍は曹都を包囲し、城門を苛烈に攻め立てるものの破ることができず、死者の数が増えるばかりであった。


 更に曹は晋兵の死体を城壁に積み上げた。これを見た文公は士気が下がることを懸念し、重臣たちと相談した。その後、軍中に宣言した。


「郊外にある曹人の墓地に営を遷す」


 これにより、晋軍は陣を墓地に移動させた。それを見た曹は墓を荒らされることを恐れ、積み上げていた死体を柩に入れ、城内から出した。


 この時代、自分の先祖をとても大切にする時代である。そのため、曹の人々は晋軍が墓地に陣を置いたことに動揺する。


 晋はそれに漬け込み、総攻撃を仕掛けた。


 三月に入り、遂に晋軍は曹都に入った。


 文公は曹国の罪状を読みあげた。内容は以下のようにである。


 賢臣・僖負羈きふらを用いないのに、軒車に乗る者(大夫以上の高官のこと)が三百人もいること、また、文公の沐浴を覗いた曹の共公きょうこうの無礼を譴責した。


 文公が賢臣であるとした僖負羈は文公の放浪中に恩を売った人である。


 文公は彼に曹都へ攻撃を仕掛ける前にこう言った。


「我が大軍が城に迫ったが、私はあなたが抵抗しないことを知っている。あなたの閭(巷の大門。二十五家で一閭が形成され、門が造られる)に標を設けてください。我が軍があなたの閭を侵さないように命じておきますので」


 これを聞いて七百余家の曹の人々が僖負羈の閭に庇護を求め、集まったと言われている。


 そのことを知った後も文公は僖負羈の閭を侵すことを許さなかった。


 これに怒ったのは魏犨ぎじゅう顛頡てんけつである。二人は文公の放浪に付き従い、苦労を共にしたのだが、その苦労を共にした中で三軍の指揮官になったのは狐毛こもう・狐偃・趙衰ちょうし・先軫だけであり、後は郤縠・郤溱・欒枝らんしという国内に留まった者である。


 それに引き換え、魏犨は文公の車右に過ぎず、顛頡に至っては無官である。このことが彼らにとってが不満であった。そして、今回の僖負羈の件である。


「功労・労苦のある者を考慮せず、何に報いようというのか」


 苦労を共にした者か功績のある者を賞するべきなのだ。それが彼らの主張である。故に今回の僖負羈の件に怒ったのだ。


 不満を爆発させた彼らはなんと僖負羈の屋敷に火を放った。重大な命令違反である。この時、僖負羈はなんとか怪我無く助かったが彼らの姿は見られ、魏犨に至っては胸に大怪我を負った。


「馬鹿めが」


 これを知った文公は今まで以上に怒りを覚えた。彼は魏犨と顛頡には目をかけており、彼らを寵愛していた。しかし、それにも関わらず、彼らは今回の事件が起こしたのである。彼の憤りは計り知れない。


「顛頡は斬れ、魏犨は死にそうであるならば、斬れ」


 だが、文公は彼の能力を愛していた。そのため彼が死にそうであるならば介錯し、大丈夫であれば彼の命を助けようと考えたのである。


 使者が魏犨の元を訪れた。魏犨は胸に包帯をまいたまま使者に会ってこう言った。


「主君の霊威がある以上、私は安寧を貪るわけにはいかない」


 彼はその場で何度も跳びはねて健在であることを示した。このことを知らされた文公は魏犨の死刑を免じた。だが、彼の車右の職を解き、舟之僑しゅうしきょうを代わりとして車右に任命した。


 舟之僑とは懐かしい名が出てきた。彼は元々虢の大夫で、虢公の夢の内容を知ると虢を離れ晋に亡命した人である。


 その後、顛頡の処刑が行われた。それを見ていた魏犨はどのような思いで見ていたのだろうか?


 魏犨の名は以後、その輝きを失い、埋没していくことになる。



















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